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プロローグ
この頃わたしの目には、世界が灰色に見える――なんて言ったら、ママは心底うんざりって顏で「なに言ってんの」と言ったけど、心底うんざりなのはわたしの方だ。
朝起きて、学校へ行って勉強をして、夕方になれば家に帰って夕飯を食べて、夜になれば眠りにつく。
この途方もない日常は、どこへ向かっているっていうんだろう? もしかして、大人になるって、このルーティーンの“学校”が“会社”に、“勉強”が“仕事”に変わるだけ?
なんて、そんなことに気づいてしまった日にはもう大変。
わたしはすっかり、何もかもに絶望して、やる気がなくなってしまったのである。
「だらけたいからって、そんな言い訳ばっかりして!」
ママはわたしにそう言って怒るけど、べつにだらけたくて言っているわけじゃない。まあそりゃ、ちゃきちゃき動くのは苦手だけど。でも、そうじゃなくて、わたしはこの頃本当に、自分の将来ってやつのことを、漠然と不安に思うのだ。
ママだってわたしくらいの頃、将来が不安じゃなかったの? それとも、ずっと楽しくてたまらなかったの?
そう訊くと、ママはやっぱりうんざりって顔で、
「そんな昔のこと、覚えていないわよ」
と、言うのだった。
じゃあわたしも、ママくらいの年齢になったら、こんなもやもやした気持ちのことはすっかり忘れてしまうのかな。
もしそうなら、今自分がこうしてじたばたしていること自体、ものすごくむだなことに思えてきてしまう。
歩(あゆむ)がわたしの灰色の世界に、圧倒的な光を放って飛び込んできたのは、わたしがそんな風にぼんやりと憂鬱を抱えている時のことだった。もっとも、歩のことを“光”なんて言うのは、わたしくらいかもしれないけれど。大人たちは、むしろ歩が、“闇”の方に飲み込まれたと思っているみたいだ。
原因は、髪。きらきら光る、派手な金髪。
物静かで、控えめで、絵に描いたような“大人しい少年”の歩が、中二の夏休みを前にして、髪を金色に染め上げた。
チョーシに乗ってる、ってばかにして笑うやつもいたし、わたしたちの担任の小田先生なんて顔を真っ青にして歩に詰め寄り、何かいやがらせをされているのかとか、誰にやられたんだとか、歩が自分で染めたなんて夢にも思っていないであろう質問を投げかけた。
対して歩は、いっそ清々しいほど堂々と、
「誰にもやられていません。自分で染めました」
と、言ってのけた。
あの時の小田先生の、まさしく鳩が豆鉄砲を食ったような、心底びっくりしましたって顔を思い出すと、ちょっと笑えてくる。
歩は市販の安い染髪剤を使ったようで、しかもあんまり染めるのが上手じゃないのか、頭のてっぺんの方は既に地毛の黒色に戻ってしまっていた。でも、そのちょっとてきとうな感じが、わたしにはむしろ格好よく見えた。
髪の色が変わったからと言って性格まで変わるわけはなく、歩はそれまで通り、物静かに過ごした。
その髪どうしたのとか、何かきっかけでもあったのとか、やいやい聞いてくるクラスメートたちを突っぱねるでもなく、ただちょっと困ったようにしながら「気分転換だよ」とか「大した意味はないよ」とか返答して、また静かに黙り込む。クラスメートたちは三日もすれば慣れたのか(飽きたとも言えよう)、歩の髪色についてあれこれ言う人は次第にいなくなった。
先生たちは歩を生徒指導室に連れて行って、こんこんと何時間もお説教をしたり、反省文を書かせたり、しまいには黒髪に戻せる染髪剤を買って渡したりしたが、どれもこれも効果は見られなかった。
結局歩の髪は、夏休みがはじまった今でも、輝かしい金色のままである。
B棟の裏。駐輪場横の、花壇前。
そこがわたしたちの集合場所だ。
四階建てで、一棟につき二〇世帯が生活する、いわゆる“団地”ってやつに、わたしも歩も暮らしている。
まったく同じ外観の建物がAからGまで等間隔に並んでいて、引っ越してきたばかりの頃はどれが自分の家だかわからなくなって、よく迷子になったものだ。
わたしはC棟、歩はA棟の住人だから、間をとってB棟の裏で会おう。
そんな取り決めをしたのは、お互い引っ越してきたばかりで、まだ五歳だかそこらの小さな頃の話だ。新しくできたばかりの団地には同い年くらいの子供が大勢いたが、わたしはみんなより少し遅れて越してきたため、その輪に上手く入ることができなかった。
ちょうどそんな時だった。歩のことを見つけたのは。
今日みたいに、うんざりするほど暑い、夏の日のことだった。
わんわん鳴く蝉の声。カンカン照りのお日様の下で、帽子も被らず、日陰にも入らず、ただじっと、アスファルトに転がるタマムシの死骸を見つめる男の子。
それが、歩だった。
「なにしてるの?」
と、声をかけると、歩はパッと顔を上げた。両頬が真っ赤で、汗をだらだらかいていたので、わたしは幼いながらにぎょっとした。歩はただ真っすぐに、ちょっと舌足らずな口調で、
「きれいな虫が、死んでる」
とだけ言うと、またしても視線を下げてしまった。
……ヘンな子。
率直にそう思った。
歩が見つめる先に転がる、灼熱のアスファルトの上で息絶えるタマムシの、あの鈍い緑色の輝きを、わたしは今でも鮮明に覚えている。それくらい印象的だったのだ。
それからわたしは、歩のことを半ば無理やり自分の家に招いて(たくさん汗をかいていたので、倒れちゃわないか心配だったのだ)、お友達を連れてきたのねと嬉しそうなママにかき氷を作ってもらい、イチゴ味のシロップをかけて食べた。
歩はずっと、ぽかん、という顔をしていた。銀色のスプーンでかき氷をすくって一口食べた時なんて、まるで、こんなにおいしい食べ物が、この世界にあったのか……とでも言うような顔で固まっていたものだ。
その日以降、わたしは、歩を見かけては声をかけて一緒に遊んだり、うちでアニメを見たりして過ごすようになった。
歩は、いつも一人だった。
いつもいつも、世界からポイッって放り出されたみたいな顔で、団地の隅の小さな公園とか、神社の境内にでんとそびえ立つけや木の下とか、集会所横のベンチとかに座ってじっとしていた。
わたしには、それが不思議でならなかった。
十七時を知らせるチャイムが鳴っても、歩を迎えにくる人は誰もいない。一人、また一人と公園から消えていくのに、歩だけは、帰っても、帰らなくても、べつにどっちでもいいかな、みたいな顔をしている。
だからわたしはいつも、歩の小さな手を引いて、ほらっ、帰るよ! と、ママの真似事の、叱るような口調で彼に言った。手を引いたところで、帰る家は別々なのに。
しかし、そんなわたしに対して歩はいつも、垂れ目がちな目をきゅっと細めて、
「うん」
と。可笑しそうに笑って、頷くのだった。
「純、プール行ったでしょ」
「え? うん。なんでわかんの?」
「塩素の匂いがする」
その日、歩はやってくるなりすんすんと鼻を鳴らして、どうでもよさそうな口ぶりでそう言った。この頃歩はずっとこんなかんじだ。ぼうっとしていて、なにもかもどうでもいい、みたいな顔をしている。
「歩も行こうよ。学校のプール、午前中だけ開放しててさ。奈々と行ってきたんだ。他の子たちも結構来てたよ」
「よかったね」
歩は、にこっと笑って言った。嘘くさい笑みだったし、「俺は行かない」という意味合いが含まれている気がして(実際そうなのだろう)、わたしはちょっとむっとした。
「なんか歩、最近変じゃない?」
「変って?」
「急に髪染めたりするし」
髪のことを話題に出されると、歩はいつも機嫌を損ねたように黙り込んでしまう。
五歳の時からずっと一緒にいて、約束するでもなくお決まりの場所に集まって日が暮れるまで一緒に過ごしたり、同じ布団にくるまって昼寝したりしていたのに、最近じゃとんと冷たくなった。こうしていつもの場所で会うのだって、なんだかんだ一週間ぶりだ。
夏休みがはじまって、五日目の夕方。わたしはいつも通り、だらだらととりとめもないようなことを歩に話した。宿題が多すぎて終わらないとか、ママが若手俳優にハマってずっとドラマを見てるとか、奈々とお祭りに行く約束をしたとか……とにかくそういう、ありふれた日常の話を。
歩はそんなわたしの話を、時折相槌をいれたりしながら聞いていた。
けれど、しばらくして話のネタがなくなって、お互いなんとなく無言の状態が続くと、まるでその瞬間を見計らったかのように口を開いた。世界から切り離されたかのような、妙にはっきりとした口調で。
「純。俺はもうここへは来ない」
わんわんと鳴く、蝉の声。
赤茶けた煉瓦の花壇に腰かけるわたしを見下ろしながら、歩はそう言った。西日が傾いて、派手な金髪が恒星みたいにきらきらと輝いてみえる。
「……来ないって、なに?」
「そのままの意味。……中二にもなって、男子と女子が無意味にべたべたしてるのもおかしいだろ。ほんとは一年の時から考えてたんだ」
なにそれ? そんな素振り、全然見せなかったじゃない。
歩は何かを確かめたがっているみたいに、わたしの目をじっと見た。わたしは、ああそうですかとか、寂しくなってもしらないよ! とか、そういう悪態をついてやりたいと思うのに、上手に言葉が出てこなかった。
「じゃあまあ……そういうことだから」
歩はそれだけ言うと、ふいっと顔を逸らして歩き出してしまった。
「あ、」
歩、と名前を呼びたいのに、声が出ない。呼び止めて、もし振り向いてくれなかったら、わたしたちの関係が全部おしまいになっちゃうような気がしたから。
遠ざかる細い背中が、狭い団地の角を曲がって見えなくなるのを茫然と眺めながらわたしは、頭の隅で、いつの日か見たタマムシの、あの鈍い緑色の光を思い出した。
わたしはその後、自分が悲しんでいるとか、傷ついているとか、とにかくそういう暗い気持ちを抱えているのだということを認めたくなくて、歩のアホ! と精いっぱい胸の中で悪態をつきながら家に帰った。
その夜は、妙に胸がざわざわして、全然寝付くことができなかった。窓を開けると、むっとした生ぬるい空気が部屋に入り込んできて、満足に換気すらできそうにない。
薄曇りの夏の夜。雲のむこうにうっすらと月が浮かんでいるのが見える。
こんな落ち着かない気持ちになるなんて、全部歩のせいだ。わたしはやっぱり、胸の中で幼馴染にそう悪態をついてから窓を閉め、今度こそ大人しく布団に戻った。
今思えば、あの夜の胸のざわつきは、“虫の知らせ”ってやつだったのかもしれない。
歩はわたしと会ったのを最後に忽然と姿を消し、もう一週間も家に帰っていない。
そして今日。
近所の川の下流から、歩のスニーカーが片方発見された。
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