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歩のママはいつも、香水とたばこの匂いが混ざった、ちょっと独特な香りを漂わせている。
胸いっぱいに吸い込むにはあまりに濃く、けれど存在をありありと示すかのように漂うその香りは、大人の女の人、というかんじがして、私はわりと好きだった。
歩は、どうだったのだろう?
「純! いい加減にしなさいよ、夏休みだからってダラダラして!」
相変わらずやかましい蝉の声と、同じくらいにやかましい(こんなこと本人に言ったらぶっ飛ばされるだろうから言わないけど)ママの声で、わたしは目を覚ました。
我が家にはエアコンが一台しかなくて、しかもその一台はリビングにとりつけられているので、わたしは毎夜毎夜扇風機の軟弱な風と、リビングからわずかに漏れる冷気を頼りに眠りについている。早い話がとんでもなく寝苦しいのだ。
目が醒めた瞬間、汗で体がべたついていると、うげっ、って気持ちになってしまう。
なんだかもう、それだけで今日一日という日のはじまりを億劫に思ってしまうっていうか……。
「ママ、今日もパートの後、歩くんを探すの手伝ってくるから、帰り遅くなるからね」
「……はあい」
気の抜けた返事をすると、ママは何か言いたそうな顔をして、でも結局言わずにため息をついて去っていった。どすどすどす、と苛立ちを隠そうともしない乱暴な足音が遠ざかって、ドアの向こうに消えてゆく。
歩が消えて、もう十日。
川からスニーカーが発見されて、三日。
わたしはまったくの初耳なのだが、歩のママによると、歩は二年生になったあたりから二,三日家に帰らないなんてことはしょっちゅうだったようで、しかも夏休み中ということもあり、
「お友達の家にでも行っているんだろうと思った」
だ、そうだ。
しかし、それが一週間ともなれば話は違う。
流石におかしいと感じた歩のママが警察に通報し、行方不明者届を提出して、本格的に捜索がはじまった。
「純ちゃん、ごめんなさいね。あたしがぼけっとしていたから、ごめんなさいね」
歩のママは、大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら、なぜかわたしにそう何度も謝った。
ふわふわの長い髪からは香水とはまた違うコロンの香りが漂って、大きな瞳にはいつも華やかなメイクが施されている。小さな子どもみたいな、ちょっと甘ったるい喋り方は、出会った時からずっと変わらない。
「歩、きっとあたしのことが嫌になったんだわ。そうに決まっているわ」
呼び出された警察署で、やっぱりぽろぽろと泣きながら、歩のママはわたしと、付き添いで来ていたわたしのママにそう言った。わたしたちは困ってしまって、顔を見合わせていつもより多く瞬きをした。
「と、とにかく、周辺を探しましょう。行きそうな場所とかに心当たりはないですか? それから、親しいお友達のお家に連絡をして、家に来ていないか聞いてみましょう。お嬢ちゃんは、歩くんのお友達なんだよね? 歩くんと仲が良い友達とか、わかるかな?」
どんよりと重たく、そしてどこか気まずい空気の中、そう切り出してくれたのは、真新しい制服の青が眩しい、若いお巡りさんだった。
そんなこと言われても……とわたしは困ってしまった。
行きそうな場所なんて、学校か、あの狭い団地の敷地しか思い浮かばないし、物静かな歩は学校でも特段親しい友達はいなかったし――だから当然、そんな歩が一週間も身を置けるような場所を知っているとも思えない。
「最初にお家に戻らなかったのが、八月一日の夜で間違いないですか? その前日、彼と何か話をしましたか?」
お巡りさんの質問に対して、歩のママは「いいえ、何も。あの子、あたしのこと避けていたから。やっぱりあたしがいけないんだわ。あたしが……」とまたしても泣き始めてしまった。対してお巡りさんは困ったように「ああ、大丈夫ですよ、落ち着いてください」と声をかける。さらにさらに、見かねたわたしのママが一歩前に出て、「須藤さん、とにかく、心当たりがあることを全部洗いだしてみましょう。ね? きっと大丈夫ですよ」なんて言いだして――まさに“あたふた”ってかんじだ。
一体全体、なにが“大丈夫”だって言うんだろう?
そう思ったが言わなかった。言えばきっと、歩のママはワッと堰を切ったように泣き出してしまうし、困り顔のお巡りさんをもっと困らせてしまうだろうし、なによりママにものすごく睨まれるだろうから。
元から放浪癖のある少年の家出、ということで、警察の人たちは最初、緊急性をあまり感じさせない態度でわたしたちに接してきたが、捜索をはじめてすぐに、歩のスニーカーが川から発見されてからは、一変して怖い顔であれこれ聞いてくるようになった。
スニーカーが発見された川は、高いところでも膝下くらいまでしか水位がなく、溺れたとか流されたとか――まして入水自殺をした、なんてことは考えにくい。しかし、今度は誘拐とか、なんらかの事件に巻き込まれた可能性が浮上してくる。
わたしは、歩が消えた八月一日の夕方、いつものあの場所で彼と会ったことこそ大人たちに話はしたが、「もうここへは来ない」と言われたことは話さなかった。
話した方がいいなんてことは、もちろんわかっている。
でも――でも、きっと。
きっと歩は、話してほしがらないだろうな、と思ったから。
ママはこの数日、ずっとイライラしている。わたしの推測では、その理由は二つある。
まず一つ目の要因は、歩のママ。
自分の息子がいなくなって、気が動転しちゃうのはまあ、しょうがない。
でも、あんまりにもずっとめそめそと涙をこぼしたり、「あたしがいけないんだわ」とか言うばかりなので、迷ったら即行動! のママからしたら、「そんなこと言ってる暇あるんなら、足を使って探しに行きなさいよ!」って思っちゃうのだろう。口には出さないけど、ママは顔に感情が出やすいからよくわかる。
二つ目の要因は、このわたし。
歩がいなくなって、わたしは自分が知り得る限りの情報はすべて警察に話した。ていうか、歩のママは歩のことを、ほぼほぼわかっていなかったので(身長とか体格まであやふやな始末だった)、おのずとわたしが喋らざるを得なくなる。
しかし、わたしはそれ以上のことをしていない。
つまり、警察や、自治体の人たちと一緒になって歩を捜索したり、川に入って何か他に手がかりが落ちていないか探したり、そういうことに一切加担していないのである。
ママからしたらきっとわたしは、ものすごく薄情な娘に見えているのであろう。実際、捜索がはじまって最初の数日は、
「あんたも手伝いなさい」
とか、
「歩くんがどうなってもいいわけ!?」
とか。あれこれ言われたものだ。
わたしだって、心配していないわけではもちろんない。
でも、水を吸ったせいで汚れが色濃く浮き出た、ボロボロのスニーカーを目にしてから、ずどんと胸に、鉛でも圧し掛かったかのように気分が落ち込んで、そしてそれ以来ずっと考えしてしまうようになったのだ。
誰かともみ合いになった際に脱げたものなのなら、それは確かに大ごとだ。
でも――もし、そうじゃなかったとしたら?
歩があの川で、何か意図的に、きちんと自分の意思を持って靴を捨てたのだとしたら。
わたしには、むしろそっちの方が怖いような気がする。
なにがどう怖いのかは、自分でもまだよくわからないけれど。
「ここまで探して見つからないってなるとさあ」
奈々は、シャーペンの頭の部分を顎にくっつけて、カチカチと無意味に芯を出しながら、不意にそう言った。
「なんか、やばい事件に巻き込まれてるんじゃないかって思っちゃうよね」
「やばい事件って?」
「そりゃ、ヤクザとかマフィアとかが絡んでいるような……」
「ヤクザもマフィアも、歩みたいなひょろひょろの中学生相手にするほど暇じゃないでしょ」
わたしが言うと、奈々は「それもそうか」と顎からシャーペンを離して、からんと音をたてて机に置いた。
わたしたちは今日、制服を着てわざわざ学校へ登校し、自分たちの教室である二年一組の机に向き合っている。
ずっと家にいるとママにあれこれ言われるし、外をほっつき歩くにもこの炎天下では限界がある。かといってどこかお店に入って時間を潰せるほど、中学生という生き物はお金持ちじゃない。
というわけで、わたしたちはしばしば、夏の間もこうして学校へ集まって、一緒に宿題を片付けたり、何時間もお喋りをしたりして時間を潰しているのである。
わあわあと騒がしい掛け声が窓の外から聞こえる。サッカー部が他校を招いて練習試合をしているみたいだ。
「純、けっこうクールだけど、心配じゃないの?」
「……うーん」
「なに、うーんって」
「いや、そりゃ心配だけど。なんていうか、いまいち実感が湧かないっていうか……」
「はあ?」
「誰かに連れ去られたのか、それとも自分の意思でいなくなったのか。そのどっちなんだろう、どっちの方がより恐ろしいんだろうって、そういうことばっかり考えちゃうんだよね」
「……そりゃ、誰かに連れ去られた方が恐ろしいに決まっているでしょう!」
珍しく大きな奈々の声。何言ってんだこいつ、とでも言いたげな眼差しでわたしを見ている。同時に、窓の外から歓声が上がる。どっちかのチームがゴールを決めたらしい。
「どうしたの、純。色々考えすぎておかしくなった?」
「そうじゃないよ、そうじゃないけどさあ……」
「まあ……仲が良かった分、あれこれ考えちゃうのはしょうがないとは思うけどね」
奈々の言葉に、わたしはうっ、と言葉を……いや、胸をつまらせた。
歩と仲が良いかどうかと問われれば、それは微妙だ。小さい頃は良かったかもしれない。けれど、中学に上がってからのわたしたちは、教室では全然話さなくなったし、B棟の裏で集合したって、なにも和気あいあいとお喋りをしていたわけではない。
ただだらだらと、惰性で一緒にいただけだ。
なんとなく、関係を断ち切るのが嫌で。
けれど、歩の方は少しずつ、わたしから離れたがっているようだった。わたしはそれを、実は薄々感づいていた。一緒にいたって、喋るのはいつもわたしばかりだし。
でも――会うのをやめたら。
あの団地の裏で、意味もなく集まってだらだらと一緒に居るのをやめたら。
ただのクラスメートとして、必要最低限のことしか話さなくなって、時が流れて別々の高校に進学したら、顔を合わせることすら滅多になくなって、そうしていつしか、どっちかが知らない間にこの町を出て……。
そうやって、連鎖が繋がるように縁が切れてしまうのが、わたしはすごく嫌だったのだ。寂しいとか悲しいとかじゃなくて、ただ単純に嫌だったのだ。
「わたし、歩は無事だと思う」
「え。どうしてそう思うのよ」
「幼馴染のカン」
本日二度目の、呆れた、って表情がこちらを向く。
「無事だと思うから、こんなにどしんとしていられるんだと思う」
「じゃあ、幼馴染のカンでわかんないの? 須藤くんがどこへ消えたのか」
「それはわかんない」
「呆れた!」
とうとう声にだして、奈々はそう言った。
ピーッ、というホイッスルの音が響いて、その後にまた歓声が上がる。
ひょいと窓の外を覗き込むと、知らない学校の名前が入ったユニフォームを着た男の子たちが、嬉しそうに飛び跳ねたり、ハイタッチをしたりしている。
残念ながら、我が校のチームは負けてしまったらしい。
夕暮れの帰り道。健全な中学生が一人、忽然と姿を消したばかりのこの町は今、妙な緊張感に包まれている。
そこら中を、制服姿の警察官とか、蛍光色のベスト(背中に「見守り強化中!」と太い字で書かれている)を着た大人たちがうろうろしていて、わたしたちのような学生が横を通るとぎろりと目を向けられる。たぶん、“見守られて”いるんだろうけど、なんだか落ち着かない気持ちになってしまう。
生ぬるい風が頬を撫でる。昼間ほど暑いわけじゃないけど、むしむしとしていて気持ちが悪い。背中に張り付いたインナーを、制服の上から引きはがすように手でつまんで、そのままパタパタと風を煽っていると、
「こんな時にこんなこと言うの、あれかもしんないけど……須藤くんってさーあ」
と、奈々が口を開いた。奈々がこういう風に、語尾を伸ばしたちょっと間抜けな話し方をするときは、なにか探りたいことがある時だ。
「結構いいよね」
「いいって?」
「かっこいい」
「え……マジで言ってる?」
「うん」
思いもよらない言葉だったので、わたしは思わずくらりとしてしまった。
「だって、他のばかな男子たちみたいにうるさくないし」
「そりゃ、控えめな奴だからね」
「乱暴じゃないし」
「ひょろひょろだからね」
「優しいし」
「えー。そうかなあ」
「女の子のこと、顔で順位つけたりとかしなさそうだし。それに、地味だけど、顔もけっこういけてると思う」
次から次へと出てくる歩への賞賛の言葉。わたしはそれを、どんな顔で聞いたらいいのかわからず、誤魔化すように爪先に視線を落とした。真っ黒な影が、ぐんぐんと長く、アスファルトに真っすぐ伸びている。
「純と須藤くんってさーあ」
「付き合ってないよ」
パッと顔を上げて、げんなりしながら、わたしは即答した。
「まだ何も言ってないじゃん」
「話の流れで、大体わかるよ。……それでなくても何回も訊かれてきたんだから」
小学生の時はあんまり(ていうか全然)訊かれなかったのに、中学に上がってからは再三尋ねられるようになった、面倒な質問。
お前らって付き合ってんの?
言うまでもなく歩はあまり社交的ではないので、そういう質問はほとんどの場合わたしに投げかけられる。
訊かれるたびにわたしは、お世辞にも可愛らしいとはいえないであろう、いかにも不愉快ですっていう顔をして、「付き合ってないっ」と答えるのだった。
中学校に上がったあたりから、わたしにはクラスメートたちが、なんだかまるで、学生服という鎧を手に入れた瞬間、違う人種にでもなってしまったかのように思えて、その変わりようがなんとなく嫌だった。小学生の頃から、中身はなんら変わっていないはずなのに、制服を着た途端急に自分たちはもう大人です、みたいな顔しちゃってさ、とすら思った。
こんな風に思うのって、わたしだけなのだろうか?
みんなは、なんとも思わないのだろうか?
「わたしは歩のことが好きだけど……あ、好きっていうのはラブじゃなくてライクの方ね」
ぎょっとした顔の奈々に対して、慌てて言葉を付け足し訂正した。
「歩はもしかして、わたしのこと嫌いだったのかも。……ていうか、迷惑だったのかも」
「え……なんでそう思うの?」
訊かれた途端、頭の中に、歩の男子にしてはちょっと高い声とか、西日に照らされて光る金色の髪とかがフラッシュバックした。
――俺はもうここへは来ない。
「……べつに」
言葉にして説明すると悲しい気持ちになってしまいそうだったので、わたしはそう誤魔化した。対して奈々は、「なにそれ! それも幼馴染のカン?」とちょっと納得いかなそうな顔をしたが、それ以上追求する気はないようだったのでほっとした。
わたしたちはいつも、川にかかる可愛げのない鼠色の橋の前で別れる。わたしは橋の向こうの団地へ、奈々は橋を渡らず右に曲がり、しばらく歩いたところにあるマンションへとそれぞれ帰るのだ。
「純。なにか手伝えることあったら言ってよね」
別れ際、奈々が何気なくそんなことを言うものだから、わたしはぽかんと間抜けに口を開いてしまった。
急になに?
さっきまでの会話と、全然話が繋がらない。
「じゃっ、また。さらば!」
困惑するわたしをよそに、片手を高く上げ、大袈裟なくらいぶんぶんと左右に降ってからくるんと回れ右をし、奈々は颯爽と去ってゆく。
わたしは少しの間、奈々の後ろ姿を見送っていたが、五時を知らせるチャイムにハッとして歩き出した。
西日が水面に反射して、とんでもないくらいの濃さの光を放っている。まぶしい。
結局今日も、歩が見つかることはなかった。
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