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   辻くんが運動公園で歩を見かけたのは、夜の八時頃だったらしいので、私たちは夜の七時半に団地の前のバス停で待ち合わせることにした。 「逃げたらタダじゃおかないわよ」  と、凄むわたしに、 「……どうせ女の子とお出かけするんなら、佐伯さんとがよかった」  と、うなだれる辻くん。  ぎろりと睨みつけると、「じょ、冗談だよ」とひきつった声で返されたが、全然信用ならない。  しかし、わたしの疑念をよそに、辻くんは約束の時間になると、きちんとバス停にやってきた。相変わらず、暑苦しい長そでのフードつきパーカー姿で。妙にそわそわ、きょろきょろする辻くんに、「なんでそんな挙動不審なの?」と訊くと、信じられない、とでもいうような目でこう言われた。 「だ、だって、誰かに見られて、勘違いされたら困るじゃないか」 「なに、勘違いって」 「そりゃ、僕らが、付き合ってるんじゃないか、とか」 「はあ!? ないない、あり得ない、てか、なんであんたが不満そうなのよ! あんたみたいな弱っちいやつ、こっちから願い下げだわ!」 「は!? ぼ、僕だって君みたいな――」 「何?」 「……なんでもないです」  言い返してこようとした辻くんを思い切り睨みつけると、言葉を詰まらせたのち、目線を外してもうそれ以上は何も言ってこなくなった。  そうこうしているうちにバスがやってきたので、ICカードをタッチして乗り込む。運動公園前は、団地から八個先の停留所だ。車内にはまばらにしか人がいなかったが、隣どうしで座るのもなんだかなと思い、わたしたちは優先席付近の吊革につかまって立っていることにした。  窓の外を流れる、夏の夜の景色。バスの中はクーラーがきいていて涼しい。肌寒いくらいだ。 「ねえ、歩と一緒にいた大学生って、どんなかんじだったの?」  ご乗車ありがとうございます、という、機械っぽい女の人の声を聞きながら、わたしは口を開いた。 「どんな感じって?」 「だから、えーと……何人くらいいた?」 「……暗かったから、よく見えなかったけど、でも、三人くらいだったと思う」 「ふうん……男?」 「いや、一人、女の人もいたかな。派手な金髪で、黒い帽子を被った」 「金髪」  頭の中に、チカッ、と金色の輝きが瞬く。その人の影響を受けて、歩は髪を金色に染め上げたのだろうか。  バスは、十五分ほどでわたしたちを目的地である運動公園前まで運んでくれた。昼間はランニングをする人や散歩をするお年寄りや親子連れで賑わっているけれど、この時間になると流石にそう人もいない。  入り口を入ってすぐ、アイスクリームやジュースを売っているワゴンが見えたが、カラフルなパラソルはすっかり閉じられ、言われずとも店じまいしているのだということがわかる。白い木でできた、見張り小屋のような管理事務所も、すっかり灯りが落とされている。  大きな池に沿って花壇や植木の並ぶ砂利道の上を、わたしたちは無言で歩いた。一歩歩く度に、スニーカーの裏がじゃごじゃこと音を鳴らす。 「も、もしも、」  無言で歩みを進めるわたしの背中を、いかにも不安げな声が追いかけてきた。 「もしも、須藤くんを見つけたら、どうするの?」 「そりゃ、連れて帰るわよ。当たり前でしょ」 「でも、もし、彼が怖い仲間をたくさん連れていたら? 背が高くて筋肉がムキムキで、眉毛が全部なくて、タバコをふかしてて、それから、えーと……」  辻くんの言う、いかにもステレオタイプってかんじの“怖い人”のイメージに、わたしは呆れて肩を落とした。 「そしたら、あんたを囮にして走って逃げる」 「え!?」 「そうなりたくなかったら、うだうだ言ってないでシャキッとついてきなさい!」  夏の夜は、犬の散歩をさせている人が多い。昼間に出歩くと、靴を履いた人間はともかく、裸の足で(肉球で?)歩く動物はやけどをしてしまうから、らしい。わたしは犬を飼ったことがないから詳しく知らないけど、前に奈々がそう言っていた。奈々の家は、茶色い毛並みのトイプードルを飼っている。途中すれ違ったチワワに、キャン! と吠えられ、ぎゃあっ、と叫ぶ辻くんの声を聞きながら、わたしはぼんやりそんなことを思いだした。 「……僕、犬って嫌い。うるさいし、獣臭いし」 「奈々は犬好きだよ」 「僕、犬って大好き!」  なんてどうでもいいやり取りをしていると、ようやくボート乗り場にたどり着いた。暗闇に浮かぶ薄汚れたスワンボートたちが、風に揺られてキィキィと音を鳴らしている。きょろりとあたりを見回して見ても、人の気配はない。 「本当にここにいたの?」 「う、うん。確かにいた」 「……まあ、同級生に見られたんだし、流石に避けるようになるか」  生ぬるい夏の夜の風が吹く。池から香る濁った水の匂いと、踏みつぶされて地面にへばりついた鯉のエサの匂いが混ざってツンと鼻を刺激する。月明かりが水面にゆらゆら揺れて、なんだか胸がザワザワする。 「よ、吉野さん」  そうやって、しばらくぼうっと池を眺めていると、それまで静かにしていた辻くんが不意にわたしを呼んだ。 「……あそこにいる人、」  あそこ、と言いながら、視線だけをちらりと遠くへ向ける辻くん。  促されるまま辻くんの視線の向く方へ目をやると、そこには、一人の女の人がいた。背中を丸めて、池を囲う木の柵に片手で頬杖をついて体重をかけるようしながら、もう片方の手ではタバコを指の間に挟んでいる。  そしてその人は、ハッと目を引くほど派手な金色の髪を持っていた。黒いキャップを目深にかぶっているから、表情はよく見えない。その姿を目に映した途端、わたしはすぐに辻くんへ視線を向けた。辻くんは女の人に会話を聞かれるのを恐れるように、ただ黙ってコクコクと頷く。  あの人が、歩と一緒にいた人。  ということは、つまり――あの人を辿れば、歩に会える。 「よし、尾行しよう」 「え!?」  吸い終えたタバコを携帯用の灰皿に押し込んで、ふう、と一息ついたのちに歩き出した女の人の細い背中を見ながら、わたしはそう言った。それから、抜き足、差し足、忍び足でそろそろと歩き出す。辻くんはそんなわたしのTシャツの裾をぐいぐい引っ張り、「やばいよ、やめようよ、帰ろうよーっ!」と言っているが、そんなのおかまいなしだ。 「帰りたいなら、あんただけ帰れば?」 「えっ、帰っていいの?」  パッ、とTシャツから手が離れる。 「うん。その代わり、奈々にあんたは弱虫の裏切者だっていうけど」 「ひ、卑怯者!」  辻くんは、少しの間べそべそぐずぐずと泣きごとを言っていたが、奈々からのイメージが悪くなるのがよっぽど嫌なのか、しばらくするとおっかなびっくりではあるが黙って後ろをついてきた。前を歩く女の人は、ジーパンのポケットに手を突っ込んで、ふらふらと覚束ない足取りで歩いている。  女の人は運動公園を出ると、そのすぐ正面の横断歩道を渡って、真っすぐに歩き出した。白いモルタル壁でできた豆腐みたいな四角い校舎が印象的な、浜北大学という大学の壁に沿って、ずんずんと直進してゆく。お世辞にも賑わっているとは言い難い、大学通り商店街を少し行くと、あるところでふいっ、と方向を転換し、路地の方へと入っていった。 「あっ、曲がった! 辻くん、行くよ!」  視界から消えたことで焦りが生じ、わたしは小走りで女の人が消えた路地へと向かった。  しかし、これがいけなかった。 「……ねえ、君たち、さっきから何?」  角を曲がった先には、目深にかぶったキャップの下で、ぎろりと鋭くこちらを睨む女の人が、仁王立ちしてわたしたちを待ち構えていた。   「ヒソヒソこそこそ、人のこと付け回してさあ……バレてないと思った? バレバレだから。大方、誰かに何か聞いたんでしょ。くっだらない噂をさ。あんたら、中学生? それとも小学生? なんにせよ、大人相手にあんまナメたまねしてんなよ。わかった?」  その人は、とんでもないくらい綺麗な人だった。  美女、という言葉が、正真正銘、等身大でよく似合う。体系はすらっとしていて、瞳はパチッとしていて、上手く言えないけど、とにかく全体的に整っていて……。凄まれているというのに、呆気に取られてまじまじとその様相を眺めてしまうくらいに。 「ちょっと、聞いてる?」 「あ、は、はいっ」 「そっちの小さい子は?」 「ハイッ、き、聞いてます!」  わたしの背中に必死で隠れるようにしていた(なんて姑息な)辻くんは、しかしその努力も虚しくあっさりと見つかり、ややあって恐る恐る前に出てきた。 「……あれ? 君、」  女の人が、辻くんを見て、動きを止める。  やばい、そうだ。  辻くんはこの人に――歩の同級生だと、知られているんだった。 「この前、ボート乗り場のところにいた子だよね?」 「し、知りません」 「嘘。だって、話してたじゃん。あの子と」  あの子、が誰だか、言われなくたってわかる。  わたしは、緊張で震える拳をぎゅっと握りしめて、小さく息を吸い込んでから、口を開いた。心臓が、ドキンドキンと激しく鳴っていた。 「あなたは、歩の居場所を、知ってるんですか?」 「ちょ、ちょっと、吉野さん」 「わたしたち、歩に会いたいんです。もし何か知っているなら教えてください。会って直接話したい。だってわたし、」  だって――だって、何? 幼馴染だから?  その先の言葉がどうしてだか思い浮かばず、わたしは口を閉ざして俯いた。わたしは、歩に会って、どうしたいんだろう。何を言いたいんだろう。いや、連れ帰りたい気持ちは確かだ。だって、これだけ大勢の人を騒がせているんだから。  でも、いや、そうじゃなくて。 「……君ら、あの子の友達?」  次の言葉を探して黙り込んでいると、その沈黙を破るように、感情の読み取りづらい、抑揚のない声が降ってきた。 「は、はい」  友達、という言葉がなんだかむずがゆく、変なかんじがしたけれど、否定せずに飲み込んだ。辻くんの方も、「友達……?」となんとなく怪訝そうな声を出したが、それ以上は何も言わない。  歩を探しているとバレてしまった。怒られる? 仲間を呼ばれて、ぼこぼこに殴られたらどうしよう?   わたしの胸に、ほんの一瞬そんな不安が満ちる。  しかし、そんなわたしの心配に反して女の人は、 「な、」  と、短く一言、言ったのち、 「なあんだ! もう、それ早く言いなよ! あはは、ウケる!」  と。  心底可笑しそうに、笑いだした。  想像とまったく違うその反応に、呆気にとられるわたしたち。 「なーんだなんだ。歩ちゃんたらお友達がいたわけね。二人も! しかも二人とも超カワイイ! あ、てか、あなたもしかして純ちゃん!?」 「は、ハイ」 「やっぱり! 歩ちゃんが話してた子だ!」  歩が、わたしのことを? どうして?  なんて思案に耽るヒマなく、金髪美女はその勢いのままわたしたちを連行(?)した。  あれよあれよとやってきたのは、浜北大学からほど近い距離にあるオンボロアパートの二階だった。錆びれた鉄骨階段を上ると、カンカン、と安っぽい音が大げさなほど響く。たてつけの悪い木製の扉のドアノブに細い鍵を差し込むと、キィ、と妙に耳に残る嫌な音と共に、内側に向って大きく開いた。 「あ、靴はそこに置いてね。ただいまーっ! ……って、誰もいない」  ぶつぶつと「もう、スプラするから集合なって言ったのはどこのどいつよ」、とかなんとか文句を言いながら、女の人は散らかった室内をのしのしと歩き出す。お酒の空き缶に食べかけのお菓子の袋、ゲームのカセットケースや漫画本に、時折混ざる美術系の雑誌。 「汚くてごめんね。ほら、ここ座って」 「あ、ありがとう、ございます」  ここ、と促された場所に座ると、ぺきっ、と音がした。おそるおそるお尻を持ち上げると、スナック菓子のかけらが粉々になっている。しかし、もう今は細かいことを気にしている場合じゃないと思い、そのままそこに座り続けた。 「で、えっと、なんだっけ。純ちゃんに、君は――」 「み、満です。辻満」 「ミチルくんっていうの? ふうん」  女の人は、辻くんの顔をじっと眺め、それからにこっと笑い、 「名前のわりに、全然満たされてなさそうだね」  と、言った。まったく悪気がなさそうなその言葉に、わたしは思わずブッと噴き出して笑ってしまったが、辻くんは渋い顔をしている。  わたしたち通された部屋は、一人暮らし用の部屋というかんじの、小ぢんまりした一Kだった。入り口を入ってすぐ左手がキッチンスペース、右手がバスルームになっていて、薄い水色のパーテーションで仕切られた先に八畳ほどの部屋が現れる。  そこには黒いカバーのかかったベッドと小さな机やテレビなどが置いてあり、余計な装飾や色のない空間はどことなく男の人の部屋、というかんじがした。  女の人は、「待っててね、なんか飲み物探してくる」と言って立ち上がり、パーテーションの向こうへ消えていった。ガチャガチャと、冷蔵庫を漁るような音が聞こえてくる。二人になったタイミングを見計らい、辻くんが小さな声でわたしに言った。 「ね、ねえ、大丈夫かな?」 「大丈夫って、何が?」 「だ、だだだ、だって、ここ、知らない人の家なんだよ? 怖い人たちが乗り込んできて、ぼこぼこにされたら? どうすんの!?」 「今更そんなこと心配したってしょうがないでしょ」 「ねえ、君ってなんでそんなに肝が据わってるの!? 僕ちょっと怖いよ!」  今にも泣き出しそうな顔で、辻くんが喚く。  肝が据わってる、なんてとんでもない。本当はわたしだって、この状況には、流石に焦っている。冷たい汗が背中を伝っているし、膝の上で握りしめた拳はほんの少し震えている。知らない大人の家に上がる、なんて、人生ではじめての経験だし、それでなくともここは、なんていうか……なんとなく柄の悪い人が住んでいますってかんじの匂いがして、緊張感に背筋が伸びる。 「二人とも、炭酸飲める?」  しかし、わたしのそんな不安なんてまるで無視して、女の人はにこにこ嬉しそうに笑って缶ジュースを両手に持ち、こちらに向かって聞いて来た。質問してきたわりにそれに返事をする前にわたしたちの手にジュースを持たせ(私はグレープ味、辻くんはメロン味)、自分は赤いラベルのビールの缶を手にして、「そんじゃっ、出会いを祝して、かんぱーいっ」なんて高らかに言ってプルタブをプシュッと開ける。 「あの、あなたは、」  親指でプルタブを持ち上げながらおそるおそるそう投げかけると、女の人は「えっ、あれ? やだ、あたしったらまだ名乗ってなかったっけ?」と、大きな目を更に大きくさせた。 「あたし、八千代。数字の八に、同じく数字の千に、代々木の代で八千代っての」 「八千代さん」  教えられた名前を、思わず繰り返す。先ほど彼女は辻くんに対し、「名前のわりに満たされてなさそう」と言ったが、それを言うなら彼女のその、いかにも大和撫子っぽい古風な名前は、言ってしまえばその華美な見目にそぐわないというか――ぶっちゃけしっくりこない。 「うん。似合わないでしょ。この見た目とキャラで、八千代って! って、よく言われる」 「い、いえ、そんな」  確かにそうですね、とは流石に言えず、わたしは乾いた笑みを漏らした。 「歩ちゃん、そろそろ帰ってくると思うんだけどな。待ってね、ラインしちゃえ。えーっと、とも・だち・きて・るよ………」 「あの、歩は今、ここに住んでるんですか?」 「へ」  効果音をつけるなら、きょとん、ってかんじの表情で、八千代さんが顔を上げる。 「住んでるって、なんで? そんなわけないじゃん」 「え」 「ああ、でもまあ、確かにずっと入り浸ってはいるみたいだね。あたしは毎日ここに来るってわけじゃないから、詳しくは知らないけど」 「……八千代さん、もしかして知らないんですか?」 「は? ……何が?」  キンキンに冷えた缶ジュースの冷たい感触が手のひらに伝わる。指先に少し力をいれると、べこ、と音が鳴る。八千代さんのいかにも呑気な反応に、わたしと辻くんは顔を見合わせた。 「ここ最近、この町で中学生が行方不明になったって」 「へー、そうなんだ」 「夏休み中の出来事だし、行方不明になった中学生は元からふらっと家を空けることも多かったから、ニュースとかにはなってないんですけど、でも時間の問題だと思います」 「ふーん………………えっ、待って。つまりそれって、」  缶ビールに口をつけていた八千代さんの顔が、みるみるうちに青く染まってゆく。  するとその時、ガチャリと扉が開く音がして、わたしはハッとして顔を上げた。どす、どす、どす、という、一歩一歩を踏みしめるような足音の跡、水色のパーテーションの向こうから、男の人が顔を出す。 「おー。なに、誰ちゃんと何くん?」  目にかかりそうなくらい長い前髪に、その下に覗くいかにも温和そうな垂れた瞳。お尻まですっぽり隠れるような白色のオーバーサイズのスウェットに、黒のスキニーズボン。  細身で、どこか中性的な印象を抱かせるその人は、わたしと辻くんの姿を確認するとへらっと笑い、「いつからここは子ども一一〇番の家になったわけ?」と言った。 「神崎! ねえやばいよ、歩ちゃんのこと!」 「なに、歩がどうしたの」 「どうしたもこうしたもないよ! 行方不明扱いになってるらしいじゃん!」 「お前それ、今気づいたの? やっば」 「なに笑ってんの!? あたしたち……っていうか、あんた誘拐犯になるんだよ!? 人生終わりなんだよ!?」 「はは。んなわけねーじゃん」  神崎、と呼ばれたその男の人は、八千代さんから缶ビールをひょい、と取り上げると、テーブルに置いた。そしてそのまま、わたしと辻くんの正面にドスンと座り込み、胡坐をかく。  怖いくらい大きな目が、一瞬だけ辻くんの方を向き、その後すぐにわたしを捉える。小さな子供のようにきらきら光って、それがなんだかとてもちぐはぐに見えて、わたしはゴクンと唾を飲み込んだ。 「君、純ちゃんでしょ」 「え」 「歩の口から、唯一名前が出た子。君がそうでしょ」  試すような、値踏みするような眼差しに、思わずぎゅうっと、自分の手を握る。手汗でべとべとして気持ち悪い。 「歩のこと迎えにきたんだ?」 「……はい。まあ」 「ふーん」  にやにやと口元を弧の字にさせながら、神崎さんはわたしを見る。感情がまったく読み取れない。こんな人、はじめてだ。そして、何を考えているのかわからない相手と対峙するというのは、結構、怖い。 「純ちゃんって、得意科目何?」 「はっ? ……な、なんでですか?」 「いいからいいから。ただの雑談」  膝の上に肘を置き、頬杖をつくような姿勢で、神崎さんがわたしにそう言った。前髪がさらりと流れて、大きな両目が露わになる。 「……体育、です」 「ぶはっ! なんで?」 「好きだから、走るの」  集団行動が好きじゃないって理由で部活には所属していないけど、わたしは走るのが結構好きだ。ぐんぐん風を切って体が前に進んでいくかんじが気持ち良い。だから、体を動かせる絶好の機会ともいえる体育の授業は得意な方だ。  神崎さんは相変わらず、心底楽しそうに笑っている。何がそんなに可笑しいのだろう。 「くくく……そっか。いやあ、いいなあ。俺の周りにはいないタイプだわ。体育が好きなんて子」 「そ、そうですか?」 「うん。俺、気に入っちゃったな、純ちゃんのこと」 「……ちょっと、神崎」  軽蔑するような、咎めるような八千代さんの声。  神崎さんはぐるんと八千代さんの方を向き、「あ? なんだよ」と、ほんの少し低い声を出す。それに対し八千代さんは渋い顔をして、「ちょっかいかけんのやめな、中学生だよ」と言う。  しかし、それに対し神崎さんは、どこかバカにしたような声色でこう言った。 「中学生。中学生ね。歩も君たちも、バカみたいにまっさらで、世の中の汚いことなんも知りませんって顔しててさ。はは。……なんか、見てるとブッ殺したくなる」  彼が部屋に入ってきた時から感じていた違和感の正体が、わたしはその時、ようやくわかった。  この人、表情は確かに笑っているんだけど、目が据わっているんだ。  誰かに「殺したくなる」なんて言われた経験なんてもちろんないわたしは、神崎さんのその言葉にぴしりと固まり、何も言えなくなった。  心臓が、緊迫感に痛いくらいにドキドキいっている。  ……殺したいって、なに? わたしのことを? なんで? 「……純ちゃんさあ、」 「あーっ! なんてこった! そろそろ門限の時間だ!」  何か言いかけた神崎さんの言葉を遮って、そんな風に大きな声を出したのは、わたしの横でずっとだんまりを決め込んでいた辻くんだった。  急に大声を出した辻くんを、神崎さんは「あ?」と一瞥する。しかし、辻くんはそんな神崎さんの反応を無視してわたしの腕をぐいっと引っ張り、「それじゃあ僕ら、帰ります! もう来ません! お邪魔しました!」と叫んだ。そのまま、大慌てで靴を履き、アパートの廊下を抜け、階段を下る。そこまで来たところで辻くんは私の腕から手を放し、「走ろう!」と言うと、言葉の通り駆け出した。  辻くんの背中を追うように(とはいえ、めちゃくちゃ遅かったけど)しばらく走り続け、運動公園の入り口まで来たところで、わたしたちはようやく立ち止まった。 「げほっ……はあっ、はあっ……うっ、えほ、」 「ちょ、ちょっと、大丈夫?」 「むり……吐く」 「はあ!? もーっ、ちょっと待ってて!」  公園に入ってすぐのところにあるベンチに、なだれ込むように横になりだした辻くん。その所作だけはまるでフルマラソンを完走した選手みたいだが、あのアパートからここまで、そんなに距離はないというのに。  私は呆れながら、近くにあった自販機に小銭をいれて、ミネラルウォーターを一本買った。暗闇の中を煌々と照らす自販機は誘蛾灯のように羽虫を呼び寄せていたので、片手をブンブン振りながらそれらを追い払った。 「……ほら、飲みなよ」  ペットボトルを差し出すと、辻くんは大人しくそれを受け取り、ごくんと一口飲みこんだ。  うなだれるようにしながらベンチに腰掛ける辻くんの隣に、わたしもそっと座る。蒸し暑い夏の夜。池から漂う湿った匂いが、肌に直接張り付くようだ。 「……あの人、やばいよ」  しばらくすると、か細い声をわずかに震えさせながら、辻くんが言った。ペットボトルをべこべことへこませるようにしながら。 「吉野さんも見たでしょ? あの人の目、全然笑ってなかった。ほんとに殺されるかと思ったもん、僕」 「……大げさな」  そう言いつつも、辻くんの言うことが、私にはよくわかった。  不思議なことに、はじめて会ったはずなのに、神崎さんは私たちのことを憎んでいるように、わたしには見えた。憎たらしくて、だから殺してやりたいって、あの目が確かに言っていた。でももちろん、わたしにも、辻くんにも、神崎さんに憎まれたりするようなことは何もないはずなのだ。 「須藤くんは、どうしてあんな人のところにいるんだろう」 「……そりゃもちろん、脅されて、」 「そうかなあ。だって、八千代さんとかいうあの女の人の反応を見るに、べつに無理やり連れられてるかんじじゃなかったじゃないか。むしろあのかんじだと、望んであそこにいるみたいだった」 「……何。何が言いたいわけ?」  はっきりしない辻くんの物言いにイライラして、わたしは思わずきつい口調でそう訊いた。けれど辻くんはまったく怯んだりはせず、それどころか顔を上げて、真っすぐこう言った。 「僕ら、これ以上首を突っ込まない方がいいんじゃないかな。……僕ら自身のためにも、もちろん、須藤くんのためにも」 「は?」 「……と、とにかく。僕はもう行くから。この件でこれ以上巻き込まないで。それじゃ!」 「あ、ちょっと!」  言うや否や、立ち上がって駆け出す辻くん。しばらくその背を見送るようにしていると、ものの数秒で走るのをやめ、よたよたと歩き出した。……なんて情けない奴なんだろう。  わたしは須藤くんを追いかける気にも、帰る気分にもなれず、しばらくそのままそこに座っていた。家に帰ったらきっと、ママはわたしを叱るだろう。それでたぶん、こんな遅くまでなにをしていたのって、わけを話すまで解放してくれない。  べつに、遊び歩いていたわけじゃない。わたしにはわたしなりの“事情”ってやつがあって出歩いていたのに、でもママはそんなこと、夢にも思っていないだろう。  辻くんはさっさと逃げちゃうし、結局歩には会えないし、あの大学生たちはなんかヤバそうだし――  なんだかもう、色んなことが面倒くさい。  わたしはため息をひとつついて、現実逃避をするように目をつぶった。  瞼を開けたら全然違う世界に飛ばされたりしてないかな、と思ったけど、もちろんそんな不可思議なことが起こるはずはないのだった。
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