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  わたしがまだ小学校低学年くらいの時、パパと二人で夜中に映画を見たことがある。    その晩、わたしはなんだが寝つきが悪くて、時計の針が日付の変更を告げた後も、一向に夢の世界に旅立つことができずにいた。  物心ついてからというもの、毎日快眠、布団に入ったらものの五分で眠れるわたしにとって、それはちょっととんでもない出来事で、はじめての経験だった。  なんだか妙にそわそわして、そうっと自分の部屋を出る。すると、リビングの灯りがまだついていて、パパが缶ビールを片手にテレビを見ていた。わたしが起きてきたことに気が付くと、パパはわずかに驚いたように目を丸めて「お、純か。珍しいな。どうした?」と声をかけてきた。 「……なんか、上手く眠れなくて」 「そうかそうか。そういう夜もあるよな」  パパはどうしてだか嬉しそうに笑いながらそう言って、「ホットミルクでも淹れようか」と、私の返答を聞くより早く立ち上がった。  パパは言葉の通り、はちみつ入りのホットミルクをマグカップに淹れて戻ってきた。それから、もうそれ以上は何も言わず、テレビ画面に視線を戻した。  私はふうふうとホットミルクを冷ましながら、パパの真似をするように画面に視線を移した。  カチコチと鳴る壁掛け時計。ママやわたしを気遣ってか、小さめに設定されたテレビの音。聞きなれない外国の言葉。ホットミルクのやさしい匂い。  その夜、パパが見ていたのは、外国の古いラブストーリーだった。  主人公の青年は、体の弱い母と二人で小さな田舎町に暮らしている。ある日、旅をしながら生活をする美しい女性がキャンピングカーに乗ってやってきて、二人は恋に落ちる。青年に対し、一緒にこの町を出ようと誘いかける女性だったが、青年はついに首を縦には降らず、二人はお互いを思いあったまま離れ離れになる―― 「なんでこの男の人は、女の人と一緒に行かなかったんだろう」  映画が終わる頃には、深夜の一時を過ぎていた。  私はうとうとと船を漕ぎながら、それでも最後まで意識を手放すことはなかった。パパは私が眠そうにしているのを横目でみながらも、もう寝なさいとか、続きは明日にしようとは言ってこなかった。ママだったらきっとそう言って、途中でテレビの電源を落としただろう。朝や昼間に見たって、意味がないのだ。そもそも、わたしが映画に興味を惹かれること自体なかっただろう。眠れない夜に、パパが淹れてくれたホットミルクを飲みながらだったからこそ、わたしはきっと最後まで見ることができたのだ。そういうことを、パパはよくわかっていた。 「だって、お母さんが大変なんだよ。純だったら心配じゃない?」 「そりゃ心配だけど……でも、そのお母さんも言ってたじゃん。自分の人生を生きなさいって」 「うーん、我が娘はクールだね」 「ていうか、お母さんも一緒に連れていけばいいんだよ。何も今の町で暮らさないといけないなんて決まりはないんだし。三人で町を出て、今よりもっと素敵な場所を見つけてさ、そこで暮らすの。うん、それがいいよ」  私が言うと、パパはあははと可笑しそうに笑った。ばかにしているかんじじゃなくて、どこか嬉しそうな笑い方だったので、いやな気持ちにはならなかった。ただ、パパがどうしてそんな表情をするのかだけが不思議だった。 「純は、遠くへ行ける足を持ってるんだね」 「なにそれ」 「パパだったらきっと、あの主人公と同じように、町に残ることを選ぶだろうな。それできっと、いつか全然違う人と結婚して、子どもが生まれて、孫までできて、しわしわのおじいちゃんになっても、あの女の人を忘れられずにいると思う。そうなるって最初から全部わかってるのに、やっぱり一緒には行けないだろう」 「え……後悔するってわかってるのに、行けないの? なんで?」 「うーん」  パパは、もうすっかり飲み終わったビールの空き缶を、ぺこん、と小さく凹ませて、 「現状を変えてしまって後悔するより、現状を変えずにいて後悔する方が、気持ち的にずっとずっと楽だからね」  と、言った。  その時のわたしには、パパの言っていることの意味がよくわからなかった。いや、今のわたしでもよくわからない。  でもきっと、自分はとても子どもっぽいことを言ったのだろうということだけは、なんとなくわかった。世の中には、あの映画に出てきた青年のように、どうしようもならないこともあるのだろう。  わたしは、あの夜見た映画のことを、今でもたまに思い出す。  いつかわたしも、パパやあの青年がした選択を、理解できる日が来るのだろうか?  理解をしたら、理解をしなかった頃にはもう、戻れなくなるのだろうか。   「純! 歩くん、見つかったんですって!」  急転直下って四字熟語を聞くと、わたしはいつも、いつの日かパパやママと遊びに行った遊園地で乗った、ジェットコースターを思い出す。よくあるレーンの上を乗り物が滑走するやつじゃなくて、かなりの高さまで垂直に上がっていって、そのまますごい勢いで落とされるやつだ。 「……は?」 「だから、歩くん、お家に帰ってきたんですって! もーっ、ママほっとして、涙出てきちゃった」  言いながら、ママは本当に涙ぐみだした。手の甲で目元をぐいっと拭って、気持ちを落ち着かせるようにふう、と息を吐いている。  ママがそんな風に、まさしく“急転直下”なニュースを運んできたのは、わたしと辻くんが神崎さんの家へ行った、わずか翌日の夜のことだ。  その時のわたしは、夏休みの宿題の一つである英語のワークを机に開いて、ジェシーだかキャシーだかよくわからない女の子が買い物をする時の会話を英語に訳していた。すると、仕事から帰ってくるなり世話しない足音を響かせながら、ママがわたしの部屋に飛び込んできたのだ。 「え、なにそれ、いつ?」 「お昼頃よ。ママは仕事だったから反応が遅れちゃったけど、ほら、ちゃんと連絡がきてたのよ」  言いながら、ママはスマートフォンの画面を私に見せるようにした。そこには、『須藤歩くん捜索隊共有グループ』という名のグループラインのトーク画面が表示されており、歩のママと思われるキティちゃんをアイコンにした人が「うちの子、今日帰ってきました! お騒がせしました!」と、たくさんの絵文字つき、そしてぺこぺこ頭を下げるうさぎのスタンプつきで投稿している。それに対して何人もの人が、「よかった!」とか「怪我はない?」とか「警察にはもう連絡しましたか?」とか言っているが、それらの質問に対しての返事は投稿されていない。 「ママ、これから須藤さんのお家に行くけど、あんたも来る?」 「は? ……なんでママが行くの?」 「なんでって、そりゃ顔が見たいからよ。心配でしょ。それに、何日も家を空けて、お腹を空かせているかもしれないし」  ママは言うなりさっさと立ち上がり、キッチンへと向かった。何か、食べるものを持っていこうとしているのだろう。  歩のママは、お世辞にも料理が上手とはいえない。というより、料理をほとんどしない。小さな頃、何度か遊びに行った須藤家のキッチンには、カップラーメンとか冷凍食品とかお菓子の袋しか置いてなかった。その話をママにしてからというもの、ママは「作りすぎちゃったから」とか「田舎からたくさん送られてきたから」とか「うちの子これあんまり好きじゃないから」とか理由をつけては、時折食事を持って行っている。だからたぶん、今回もそうしようとしているのだろう。 「ほら、行くよ」 「……わたし、いい。行かない」 「はあ!? ……ま、いいわ。でも、落ち着いたら連絡くらいしてあげなさいよ。大事なお友達なんだから」  それだけ言うと、ママはトートバッグに食べ物をあれこれ詰め込んで、家を出て行った。……もっとあれこれ嫌味を言われると思ったけど、案外すんなり解放されたな。まあ、ママからしたら私なんかに構っている場合ではないのだろう。  しんとした静寂が、室内に広がる。なんとなく気持ちが落ち着かなくて、からからと窓を開ける。入り込んできた外の熱気は、数日前よりほんの少し和らいだ気がする。  歩が帰ってきた。  私は、その事実に自分が思いのほかホッとしているということに気が付いた。  いてもたってもいられなくなって、家を出る。するとすぐに、上の階に住んでいる小学生の兄弟が喧嘩をする声が聞こえてきた。泣いているのは弟くんだろうか。少し遅れて、「もう、静かにして!」というお母さんの声が聞こえてくる。そうかと思えば今度は、ドッドッドッ、という低く唸るような音が響いてきた。どこかの家の誰が、バイクで帰ってきたみたいだ。立て続けに、近くにあるバス停にちょうどバスが停まって、車掌さんの「ありがとうございました」という声。それを追うように、ICカードのピッという機械音が響いてくる。  団地の夜は、賑やかだ。  そして、そんな賑やかな音の間を、わたしはとても静かに、足音をたてないように歩いた。どうしてだか、そうしたい気分だった。サンダルと裸足の隙間を、夜の風がスッと入り込んでゆく。  B棟の裏。駐輪場横の、花壇前。  なんとなくそんな気はしていたけれど、やっぱり、金色の髪がそこで揺れていた。 「歩」  名前を呼ぶと、歩はあっけなく顔を上げた。  わたしたちの間を、沈黙が包む。歩は、頬に絆創膏を貼っていた。怪我の大きさより微妙に小さいそれは、歩の頬に青あざができているのだということを、絶妙に隠せていなかった。  歩は、何も言わなかった。わたしも、何を言えばいいのかわからなかった。何を言っても、軽蔑されるような気がした。 「……歩、わたし、」  ようやく口を開いたわたしに対して、 「純には関係ない」  ぴしゃんと、歩は言い放った。 「お前、スバル君の家に来ただろ。なんで勝手にそんなことすんの? マジで迷惑。ていうか、この前も言っただろ。もうこれ以上、俺に構うな。俺とお前じゃ、住んでる世界が全然違うッ」  スバルくん、というのは、神崎さんのことだろう。  一生懸命興奮を抑えようとしながら話す歩だったけど、言葉を連ねていくうちにどんどんと勢いが増して行って、最後にはほとんど怒鳴るような声になった。  考えもよらなかった言葉に戸惑うわたしを、歩はギロッと睨みつける。はちみつ色の瞳が、怒りに燃えていた。ぎゅっと下唇を噛んだせいで、わずかに血が滲んでいる。歩のこんな顔を、わたしは初めて見た。 「あ……あんた、何言ってんの? 住んでる世界が違うって、何? 全然違わないじゃん。全然、違わないよ」 「いや、違う。……俺は、純みたいにいられない。純みたいに、普通にできないんだ」 「は?」 「お前といると、いつもそうだった。今もそうだ。自分がみじめで、嫌になる。弱くてくだらない自分が、嫌になるんだ。だからもう、関わらないでくれ」  みじめって、何? 弱いとか、くだらないとか、そんなこと、そんな風に思ってたってこと、今まで一度だって言ったことなかったじゃない。 「歩。あんたは確かにひょろっちいけど、でも、だからって弱いってわけじゃないし、ましてくだらなくなんかないよ」 「……何を言ったって、きっと理解できないよ、お前には」 「歩!」  言うだけ言うと、歩はさっさと背を向けて、歩き出してしまった。  みるみる遠ざかっていく、金色の髪。細い背中。風が吹いて、土の匂いが宙を舞う。 「だったら――だったらあんた、なんでまたここへ来たの?」  もう来ないって、確かにそう言ったのに。  それなのに、わざわざここへ来たというのには、何かきっと、歩なりのわけがあったんじゃないの? 「何か、よくないことに巻き込まれてるんなら、力を貸す。だから、戻ってきなよ」  絆創膏の下の怪我を思いながら、わたしは言った。  わたしの言葉を背中に受けながらも、歩は振り返らなかった。迷いのない足取りで、ぐんぐんぐんぐん、進んでゆく。  歩はもしかして、もうずっと長いこと、わたしのことを鬱陶しく思っていたのだろうか。  そう思うと、どうしようもなく辛く悲しい気持ちになって、でもいつもみたいに悪態をついて振り払う気力もなくて、わたしはただしばらくそこに突っ立っていた。
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