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5
正直ちっともそんな気分にはなれなかったけれど、その翌日、わたしは奈々と近所の商店街で開催されている夏祭りに出かけた。
奈々は良いところのお嬢さんなので、こういうイベントごとのときは、必ずといっていいほどそれに見合った格好でやってくる。つまり、今回の場合は浴衣だ。
紺地に、真っ赤な金魚の揺れる浴衣を、上品な淡いグレーの帯で結んだ奈々は、正直私と同い年には見えないくらい綺麗だった。黒くて長い髪を、ゆるく編み込みにしているのもステキだ。
「あっづ~。てか、人多すぎ!」
ひらひらと自分自身を手で扇ぐようにしながら、奈々が言う。静かにしていれば涼し気な美人なのに、口を開くと私と同じ、中学二年生の女子になる。
全長二百メートルくらいのアーケード商店街に沿って夜店の立ち並ぶ、その大きすぎず、小さすぎない規模のこの祭りには、毎年たくさんの人が訪れる。このあたりに住んでいる人たちは、ほとんどみんな参加しているんじゃないだろうか。
アーケードを抜けて少し先の方にある運動公園には櫓が立ち、そのてっぺんからは電飾が方々に伸びている。公園には夜店はなくて、『管理事務局』と書かれたテントの下で、たいていおじさんたちがお酒を飲んで大笑いしている。
私は奈々と二人、はぐれないようにしながら、夜店をぐるっと見て回ることにした。「金魚すくい」「りんごあめ」「かき氷」「イカ焼き」「やきそば」なんかの定番の屋台と並んで、「揚げアイス」「おやき」「磯辺焼き」なんかの変わり種もちらほら見受けられる。そうかと思えば、普段アーケードに軒を連ねる雑貨屋が、フリーマーケットの要領でちゃっかり自分の店の商品を売っていたりもする。
「ねえ、純。何から食べる?」
何食べる? じゃなくて、何から食べる? ってところが奈々らしい。
「うーん……なんか、普通にお腹空いたな。たこ焼きとか食べたいかも」
「いーね! じゃ、買いに行こ」
にこにこ笑って、奈々が頷く。ぎゅ、とわたしの手首を握る。普段はそんなことしてこないのに、場の空気にあてられて、ちょっと浮足立っているのだろう。奈々の熱い手のひらの感触を感じながら、そう思った。
たこ焼きの屋台には、五人ほど人が並んでいた。列のいちばん後ろに二人して並んで、順番を待つ。遠くに見える櫓の上では、米粒みたいな人たちが踊っている。さっきまでは『東京音頭』が流れていたけれど、今は『炭坑節』が流れている。
♪月がああ 出た出たあ 月が出たあ ヨイヨイ
「純、須藤くんに会ったの?」
櫓に揺れる提灯の赤をじっと見つめていると、不意にそんなことを訊かれた。振り向くと、奈々の大きくて丸い目がこっちを見ていた。
「ん」
なんとなくバツが悪くて、わたしは短く頷いた。歩が無事に戻ってきたということは、保護者たちのネットワークを通して、昨日のうちで広く知れ渡ったらしい。
「そっか」
奈々は何かを察したように、それ以上何も訊いてこなかった。気を遣ってくれたのだろう。
でも、わたしはむしろ、もっとつっこんで訊いてほしいような気持だった。自分からは上手く切り出せないけれど、奈々がいつもみたいにからっと笑って、「で、で!? どうだった?」って訊いてくれたら、「それがあいつさあ!」って笑って――そう、文字通り笑い話にすることができたのに。
そうこうしている間に、わたしたちの番がきた。屋台の近くは鉄板の熱気がじんじんするほど伝わってきて、いっそ痛いくらいだ。
屋台のおじさんが奈々を見て、「お姉さん、かわいいねー!」と白い歯を見せる。それがあまりに爽やかな言い方だったので、奈々は珍しく、ちょっと照れたように「ありがとう」と言った。
二人して列を抜ける。時刻は夜の八時過ぎ、祭りがいちばん盛り上がる時間だ。
「これ、どこで食べよっか。一回アーケード抜けて、運動公園の方でも行く?」
ちゃっかり一個おまけてしてもらったおかげでパンパンになったプラケースを持ちながら、奈々がわたしに尋ねる。
「だねー。ここじゃ人多すぎて、ゆっくり食べられそうにない、し……」
その時、わたしは視界の端で、奇妙な光景を目にした。……いや、奇妙というか、不吉というか。
鮮やかなピンクや赤、大輪の向日葵みたいな黄色、目の冴えるようなブルー……。色とりどりの浴衣を着た人たちが足早に過ぎてゆく賑やかな大通り。そんな華やかなお祭りの会場で、異彩を放つ黒いパーカーの男の子がいた。
……間違いない、辻くんだ。
あいつ、お祭りなんてくるんだ。こういう賑やかな場所、嫌いそうなのに。
そう思いながら、わたしはぼうっとその背を眺めた。辻くんはこちらに気が付いていないようだった。浴衣姿の奈々と一緒にいるところを見つかったりしたら、かなり面倒なことになりそうだし、このまま何事もなく通り過ぎてくれますように……。
「辻! こっちこっち!」
ふと、しゃがれた声が聞こえてきた。見ると、坊主頭の男子三人が、辻くんを手招きして呼んでいる。確か、三組の子たちだ。名前は知らないけど。
ばりばり運動部で、いわゆる“陽キャ”に分類されるような人たちが、なんで辻くんみたいなのと一緒にいるんだろう?
なんてそんな失礼なことを思いながら、わたしはぼうっと辻くんを見た。坊主頭の一人が辻くんの肩に腕を回し、ほとんど引きずるような形で連れてゆく。体格差がかなりあるせいで、辻くんはよろけてしまう。それはなんだか、胸がざわざわするような、嫌なかんじの光景だった。
「……奈々、ごめん、わたしちょっとトイレ行ってくる!」
「えっ?」
「すぐ戻る、そこで待ってて!」
言うなり、わたしは人込みをかき分け駆け出した。背中に奈々の「ちょっと、純!?」という困惑した声を受けながら。
すみません、通してください、すみません……と言いながら前に進む。触れる人々の波はどれもこれも熱を持っている。屋台の匂い。はしゃぐ子供の声。光もののおもちゃの目に眩しい輝き。そういうものを追い越しながらなんとか前へ進んで、ようやくその背に追いついた。
「なー、フランクフルト食おうぜ、フランクフルト」
「はあっ!? 食うなら絶対焼きそばだろ。フランクフルトなんてコンビニでいつでも買えんだから」
「焼きそばだって買えるべ。な、辻!」
「え、う、うん」
「おい、辻困ってんじゃんかよー」
ぎゃはは、と笑い声が響く。普段、練習や試合で大きな声を出すことが多いからか、野球部たちの声はしゃがれていて、妙に耳に残る。
「つか、どっちでもよくね? どーせ俺たち、奢ってもらうんだし」
三人組のうちの一人がそう言うと、あとの二人が顔を見合わせ、「いやそれな~!」と笑う。わたしはその時点で、この状況のすべてがなんとなく理解できて、思わず「……うーわ」とため息が漏れた。
「じゃ、辻クン。ごちになりまーす」
どん、と一人が辻くんの背中を叩く。辻くんはやっぱり、よろりとよろけてしまう。
わたしはなんだかイライラしながら、辻くんを見た。俯いているせいで、その表情はよく見えない。やがて辻くんは、ポケットからお財布(というか、布でできた手作りっぽいポーチ)を取り出すと、躊躇いながらお金を取り出そうとした。
「つか、財布ごと俺らが持ってた方が早くね? な? それがいいよな?」
「え」
「てことで、これは預かりまーす」
辻くんの手元から、ポーチが奪われる。「やっば、極悪人やん」「おい、流石にかわいそうだってえ」なんて言いながらも、三人組は笑っている。お祭り、という普段とは少し違う空気のせいもあるのだろう、どことなく興奮したような笑い方だった。
「ま、待って! せめてポーチは返して!」
「はあ?」
「だ、大事なものが入ってるんだ。お願い。お願い、します……」
辻くんは、もうほとんど泣いていた。声は震えて、ぎゅうっと胸のあたりを掴みながら俯いている。
「大事なものだってさ。どうする?」
「えー、とりま見てみようぜ」
ポーチの中から、千円札が二枚と、硬貨が何枚か取り出される。一人がそれを、自分のポケットにいれる。それから、どこかのお店のレシート、ポイントカードなんかを取り出すと、最後の最後に何か白いもの――ガーゼか何かでくるまれた、小さな物体がでてきた。
「は? ……うっわあああ、なにこれ、キモ!」
「げえええええっ! おい、捨てろ捨てろ!」
「うわ、なんか手についた!」
「や、やめて!」
「――ちょっと!」
わたしはとうとう耐え切れなくなって、そこでようやく声をかけた。……辻くんのことはそんなに好きじゃないし、助けてやる義理もないけど、でも、泣き出しそうな困り顔を見ていると、むしょうに腹が立った。だから、いても立ってもいられなかった。
ものすごく大きな声を出したと思ったのに、騒がしいお祭り会場の喧騒に紛れて、わたしの声は静かに消えた。けれど、辻くんと坊主頭共を振り向かせるには、じゅうぶんだったみたいだ。
「は? ……お前何?」
「さっきから見てた。あんたたち、やってることクッソださいんだよ。つかキモイ。バカじゃないの?」
「はあ? てか、見てたって何? 俺たち、普通に遊んでただけだけど」
一人が、なあ? と言うと、「それなー」「な」と二人が笑う。辻くんはびっくりしたような目でこちらを見ている。どうしてここにわたしがいるのか、わかっていないような顔だった。
「あんたたちの『普通に遊ぶ』って、人の財布とって、そこからお金巻きあげるようなことなんだ。へー、ふうん」
「そんなことしてねーし、適当言ってんじゃねーよ。つか、してたとしても、べつによくね? 俺たち、仲の良い友達どうしだから、助け合って生きてんの。金欠の友達のために奢ったり奢られたりすんのなんか、普通だろ」
「じゃ、さっき撮った動画、野球部の岡崎先生に見せてもいいんだ」
そう言うと、三人組はぴしりと表情を固めた。わたしはスマホのロック画面をひらひらと見せながら、「仲の良い友達どうしの助け合いの場面なんだもんね。見られても何にも困らないでしょ」と言って見せる。
野球部の顧問である岡崎先生は厳しいことで有名な中年の男性の先生で、全校生徒に恐れられている。こいつらは野球部だから特に、告げ口されるとまずいのだろう。
「……動画撮ったなんて、嘘だろ。本当なら見せてみろよ」
そう、その通り。動画なんて撮っていない。流石のこいつらでも、それくらいはわかるみたいだ。
でも、こういう時は嘘をつきとおす思い切りが大事だ。
「いいよ。でも、まず辻くんのお金、返して。言うこと聞くなら消してあげる」
「…………」
「返して」
三人は、殺してやる、というような目でわたしを見ながらも、動画を先生に見られるのがよっぽど嫌なのか(まあそりゃそうだ)、大人しくお金をポーチに戻した。
しわしわの千円札が二枚と、硬貨が何枚か。ポイントカードやレシートなんかもきちんともとに戻される。
「それから、それも」
坊主頭の一人が手に持つ、ガーゼに包まれた物体を指して、わたしは言った。納得のいかないような顔をしながらも、ガーゼがポーチにいれられ、辻くんの手に戻ってくる。
一瞬の沈黙。
均衡状態が、その場を包む。
「……よし」
わたしは小さく言って、気づかれないように深呼吸をした。
息を吸って、吐いて、吸って――
「逃げるよ、辻!」
「えっ、ちょ、」
「はあっ!? おい、待て!」
つい昨日、似たようなことがあったな……、なんて思いながら、わたしは辻くんの枯れ枝みたいに細い腕を掴んで駆け出した。「ふざけんな、ブッ殺すぞ!」なんて物騒な声が追いかけてくる。でも、無駄に図体のでかい三人では人込みで上手く動けないようで、わたしたちの差はどんどん広まっていった。
「辻、お前覚悟しろよ! 学校来れなくしてやるからな!」
最後に聞こえたその声は、随分遠くから響いてきた。
ぜぇぜぇ、はぁはぁ、と呼吸が荒くなる。肺が痛い。玉のような汗が頬を伝って気持ち悪い。大きく息を吸ってみても、祭りの熱気がそのまま体中に入り込んでくるようなかんじがして、全然凉しくならない。何度も何度も繰り返し流れるお囃子の音が、地鳴りのように響いている。
夜店が立ち並ぶ大通りから一本外れた路地に来て、わたしたちは息を整えた。別世界のように人気が少ないその並びでは、夜のお店が通常通り営業しているみたいで、居酒屋の暖簾の向こうからは楽しそうな笑い声が響いている。
「あ……あんた、何してんの? あんな奴らに、」
お金、渡すなんて――。そう言おうとして、やめた。
辻くんは泣いていた。
熱を逃がすためにフードを脱いだせいで、涙と汗と鼻水にまみれた汚い顔面がよく見える。流石のわたしでもこんな状態の人に悪態をつけるほど鬼じゃない。わたしは迷った末、ポケットからハンカチを取り出し、そっと辻くんに差し出した。いらない、と突っぱねられそうだなと思ったけれど、意外にも辻くんは「……あ、あり、がとう」としゃくりあげながらそれを受け取った。
『呑みどころ あやせ』と書かれた小さな立て看板の横の段差に腰かけ、二人してしばらく黙り込む。わたしはスマホを取り出し、随分待たせてしまっている奈々に『ごめん! トイレ混んでたから、もうちょいかかりそう』とだけメッセージを送った。
「……まあ、元気出しなよ」
誰かを励ますなんてこと、人生でほとんどしたことがないから、わたしのその言葉はひどく心のこもっていないように響いてしまった。でも、べつに本当に心をこめていないわけじゃない。ただ、どうしたらいいかわからないだけで。
この頃わたしはずっとこうだ。どうしたらいいか、何を言ったらいいかわからない。人とのコミュニケーションに正解なんてないのだろうけれど、でも、それにしたってたぶん、適切とは言えないであろうことばかりしてしまう。
「……やめてよ。励まされるくらいなら、バカじゃんって笑われる方がまし」
「……あっそう」
「特に、吉野さんには。そんな風に、哀れんでほしくない」
言うなり、辻くんは膝を抱え込むようにして黙り込んでしまった。
そんなこと言われたって、じゃあどうすればいいって言うのだろう。言われた通り、バカだのアホだの言ってばしんと背中を叩いてやればいいのだろうか?
「……ねえ。あの白いやつ、何?」
迷った末、わたしはおずおずと質問を投げかけた。野球部たちが悲鳴を上げた何か。きもいと吐き捨てた何か。でも、辻くんはそれを奪われそうになった時、やめてくれと珍しく大きな声を出していた。いつもぼそぼそと、小さな声でしか話さないのに。
わたしの質問に、辻くんはちらっとこちらを見た。それから、ポケットからポーチを取り出して、チャックを開ける。くちゃくちゃになったレシートの間から、くたびれたガーゼが顔を出す。
そこから出てきた物体に、わたしは思わず目を丸めた。
「これ、へその緒」
それは、長さにして五センチくらいのひも状の物体だった。
赤黒いその姿かたちは、一見してひからびたミミズのようにも見える。とてもじゃないが、桃色のファンシーなポーチから出てくるには釣り合わない様相だったので、わたしは息を呑んだ。
「……僕んちが父子家庭なの、知ってるでしょ。お母さんは四年生の時、出て行っちゃった。お腹に赤ちゃんがいたんだって」
まるでお守りを抱くようにガーゼを握りながら、辻くんは言った。
辻くんのお母さんのことは、わたしも記憶にある。辻くんによく似た、小柄で、小動物みたいにくりくりした目をしてて、なんとなく気弱そうな人だった。いつからか姿を見かけなくなって、不思議に思ってママに訊くと、ママはちょっと厳しい顔になって、
「辻さんのお宅ね、離婚されたそうよ。でも、そういうことを面白がって辻くん本人に言ったり訊いたりしちゃだめだからね。わかった?」
と、わたしに言った。
離婚、というものが何なのかということくらいは、当時四年生のわたしでも知っていた。
お父さんとお母さんが家族じゃなくなって、赤の他人になってしまうことだ。
でも、辻くんの出て行ってしまったお母さんのお腹に赤ちゃんがいたというのは、初耳だ。それも、この口ぶりからして、辻くんのお父さんとの間の子どもではなかったのだろう。
「じゃあ、これ、辻くんがお腹にいた時、お母さんと繋がってたやつなの?」
お母さんと確かに繋がっていた証がほしくて、これを持ち歩いているのだろうか。そう思うと、なんだか胸に冷たい風がすっと吹いたような気持になった。
「……ううん」
しかし、わたしの予想に反して、辻くんはふるふると首を横に振った。
「ちがう。僕のじゃない」
「は? ……じゃ、誰の? 全然関係ない人のへその緒持ち歩いてんの? そんなわけないよね?」
「…………」
「……まさか、」
頭の中に、ある考えがよぎって、わたしは目を見開く。そんなわけないよね? そのまま辻くんの言葉を待っていると、しかし辻くんは「たぶん、吉野さんが想像してる、その“まさか”の通りだよ」と言った。
「これ、お母さんと、お母さんのお腹にいた赤ちゃん――僕にとって父親違いの弟が、お腹のなかで繋がってた時のへその緒なんだ」
延々とループしていた炭坑節がようやく終わりを迎え、そうかと思えば東京音頭が流れはじめる。楽しそうな笑い声や喧騒が、ずいぶん遠くの世界の音のように感じられる。
「……なんで、そんなの持ってんの?」
「……べつに、盗んだりしたわけじゃないよ。五年生の夏休みに一度、僕一人でお母さんに会いに行ったんだ。お母さんの新しい家は、ここから電車で一時間半くらいのところにあって、僕、生まれてはじめて一人で電車に乗ったんだ」
中学二年生の今でさえ小さくてひょろっちいこの辻くんが、更に小さな小学生の時に一人、お母さんを訪ねるために電車に乗るところを想像すると、わたしは何も言えなくなってしまった。
「何かが変わると思った」
辻くんは言った。
「僕が会いに行ったらきっと、お母さんはやっぱり僕が可愛くてしょうがなくなって、手放せなくなるだろうって、そう思った。だから僕、もうこの町へ帰ってこれなくなってもいいようにって、教科書とか筆箱とか、服とか、好きな本とかゲーム機とか、とにかく、大事なもの全部リュックに詰めて持って行ったんだ。……でも、そんなことにはならなかった。全然、ならなかった」
あと三十分で花火の打ち上げがはじまるようで、会場にはアナウンスが流れだす。『打ち上げに伴いまして、公園内はたいへん混雑いたします』『小さなお子様をお連れの方は、はぐれないようしっかりと手をお繋ぎいただき……』。
「お母さんは、生まれたばかりの赤ちゃんを僕に見せて、あなたの弟よって笑うんだ。それから、僕にこのへその緒を見せてくれた。お腹の中で、お母さんとこの子が繋がっていた証なのよって。それから、もちろんあなたも同じように、お母さんと繋がっていたのよって。だから、どんなに離れていたって、例え苗字が別々のものになったって、大丈夫だって」
それは、誰にとっての大丈夫なのだろう、とわたしは思った。
きっと辻くんも同じことを思っただろう。
「帰り際、僕、へその緒をちょうだいって言ったんだ」
アナウンスがひっきりなしに流れる。その音に誘発されるように、居酒屋からおじさん集団がぞろぞろ出てきて、わたしたちをちらっと見ると、「青春だねえ~っ」と言って笑いながら去っていく。いつもだったらムカついただろうけれど、今は心底どうでもいい。
「お母さんは最初、僕がお腹の中にいた時のやつのことかと思って、そっちを持ってきた。でも僕は、僕の弟とお母さんが繋がってた方がほしいって言った。お母さん、すごく困った顔してた。僕がどうしてそんなこと言うのかわからないって顔だった。お母さんの再婚相手の男の人も、やっぱり困った顔で『これはとても大切なものだから、他のじゃダメかな?』って訊いてきたけど、僕、どうしても譲らなかった。……譲らなかったんだよ、僕。すごいでしょ?」
「……うん」
「それで、たぶん僕に対する負い目があったのも大きいんだろうな。僕はこれを無事に譲りうけた。……僕、スカッとしたんだ。いつもいつも、目の前で起きることをただ見ているしかできなかった。でも、はじめて自分の力で、世界に仕返しできた気がした。だから僕、これを触るとホッとするんだ。僕は、やろうと思えばちゃんと、やれる奴なんだって思えて。それで――だから、」
「わかった、もういいよ」
自分自身の放つ言葉で、辻くんがどんどん傷ついていっているような気がして、わたしはそこで制止した。辻くんはわたしが止めると一瞬ぎくっとした顔になり、でもどこかホッと安心したように小さく息を吐いて、「……ごめん、くだらないこと、ぺらぺら喋って」と言った。
「べつに、全然くだらなくなんかないよ」
「……うそだ」
「うそじゃない」
「うそだよ」
「だから、うそじゃないって」
「……吉野さんが僕に、こんなに優しいはずないもん」
「おい!」
ぽかん、と軽く頭を叩くと、辻くんは「いてっ」と言って、鼻をすすりながらくすくす笑った。
「あんたのこと、」
わたしは、立ち上がってぱんぱんとお尻を払ってから、辻くんを振り向いた。相変わらず、瞳は真っ赤に濡れているけれど、もう涙を流してはいない。
「わたし、ずっとどうしようもないヤツだと思ってた。でも今は、そんなに悪くないって思う」
「……だから、気を、」
「気なんか遣ってない。……それどころか、ちょっと見直した」
「え」
「ちょっっっとだけね。ほんと、小指の爪くらいちょっとだから。……まっ、あいつらに殺されないように、今日はもう帰りな」
それじゃあね、とわたしは手を振った。辻くんはぽかんとした顔をして、「あ、う、うん。あ、ありがとう?」と困惑した声で言って、わたしたちはそこで別れた。
ずんずんと、大股で進んでゆく。どんどんと喧騒に近づいてゆく。
みんな、色んなことを考えて、色んな思いを抱えて生きているのだ。そういうことに、なんだか胸がざわざわする。見えていた景色が自分の背中から、ものすごい勢いで私だけを置いて前へ進んでいくような……そんな奇妙な感覚がまとわりついて離れない。
いつかのパパの言葉が、頭のなかでやけに響く。
現状を変えてしまって後悔するより、現状を変えずにいて後悔する方が、気持ち的にずっと楽……。
わたしは、歩を探さない方が良かったのだろうか。
そうしたら、あんな風に突き放すようなことを言われることは、なかっただろう。
辻くんは、お母さんに会いに行かない方が良かったのだろうか。
そうしたら、お母さんのそばにはもういられないのだと打ちのめされることは、なかっただろう。
――でも、もし本当に、行動をしない方が良かったというのなら。
今こうして、ジタバタしながら生きて、行動していることのすべては、無駄なことなのだろうか?
歩きながら、奈々に送ったメッセージの画面を見る。意外なことに、既読マークがついていない。心配になって、速足で別れた場所を目指す。会場の人たちは皆、花火を少しでも良い位置で見ようと運動公園の方へ移動を始めているため、その流れに逆らうように歩くのは骨が入った。
人込みをかき分けて、なんとかたこ焼き屋の屋台の前に戻ってきた。煌々と揺れる提灯の下に、紺の浴衣を着た奈々の背中を見つけて、ホッとした。
「な――」
奈々、と名前を呼ぼうとして、頬を叩かれたように踏みとどまる。
奈々の隣に、金色の髪の男の子――歩がいた。
二人は喧騒の中を会話しているせいか、妙に顔を近づけて話していた。時折、ふっと微笑み合ったりなんかして。当たり前だが、二人が話している内容は、わたしには聞こえてこない。
色とりどりの提灯の下。人込みから少し外れた、屋台の影。ぱりっとした着物姿の奈々に、世界から切り離されたような金髪の歩。
その光景は、なんだか目がチカッとするほど――とても、とても鮮烈で美しく見えた。
わたしはくるんと回れ右をして、人込みの中を再び歩き出した。どうか、どうかわたしが戻っていたのが、二人にバレていませんようにと祈りながら。
いや、心配しなくともきっと、あの二人にはわたしのことなんて、見えていなかっただろう。
♪はああ 踊り踊るなら ちょいと東京音頭 ヨイヨイ
なんだかすごく、頭が痛い。
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