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 その夜、わたしは夢を見た。  夢の中で、わたしは小さな子どもだった。うんざりするほど暑い、夏の日。べたつく髪と肌、頬を撫でる生ぬるい風、小さな足で探検するには広すぎる団地の中――。  ……ああ、サイアク。これ、悪夢だ。  げんなりするわたしの意識をよそに、夢の中のわたしはずんずんと歩みを進めてゆく。  わんわん鳴く蝉の声。カンカン照りのお日様の下で、帽子も被らず、日陰にも入らず、ただじっと、アスファルトに転がるタマムシの死骸を見つめる男の子を見つけるまで。 「なにしてるの?」  声が聞こえてきた。舌足らずな、幼い声だ。  でも、わたしの声じゃない。  そこには、幼いながらにすでに目鼻立ちの整った、かわいらしい女の子がいた。長くてさらさらの髪に、くるみのような瞳、小さくて尖った鼻に、白い肌。不思議なことに、汗一つかいていない。夢の中だからなのかもしれないけれど、でもその涼し気なかんじが、わたしにはとても眩しく見えた。  女の子と男の子は、出会うべくして出会ったみたいに、すぐに打ち解け、お互いのことを好きになった。小学校に入っても、中学生になってもずっと、その関係は変わらない。たまに小さな言い争いはするけれど、意地っ張りな男の子のために、お姉さん気質な女の子の方からたいてい「ごめん」と謝って、男の子も「俺もごめん」と謝る。そうやって二人は、少しずつ、少しずつ親しくなってゆく。わたしはその光景を、ただじっと眺めていた。  二人は、漫画やドラマに登場するヒロインとヒーローみたいだった。  そうか、あの日。  わたし、歩に声をかけなければよかったんだ。  そうしたらきっと、わたしみたいに口うるさくて可愛げのない奴と幼馴染になんてならなくて済んだのに。  あの日、歩に声をかけたのが、わたしじゃなくて奈々だったら――  歩は、川にスニーカーを捨てたりはしなかったのだろうか?    翌日、わたしは熱を出した。  風邪なんてめったに引かない健康優良児として十四年を過ごしてきたわたしは、体が上手く動かなくなるその久々の感覚に、かなり戸惑うのだった。 「三七度九分……ちょっと高いわね。ママ、お昼休みに一度様子を見に戻ってくるから、熱が下がらなかったら病院に行きましょうか」 「いい、大丈夫」 「そんながびがびの声してなに言ってんの」  呆れたような言葉のわりに、ママは心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。  ママの言う通り、わたしの声は発している自分でもかなり聞き苦しく、童話に出てくる悪い魔女のようにしゃがれてがびがびだった。 「とにかく、今日は大人しくしていなさい。何かあったら連絡するのよ。ママ、今日は一日、スマホ持ってお仕事するから。わかった?」 「ん。わかった。行ってらっしゃい」  ベッドの中でもぞもぞと寝返りを打ちながら、ママを見送る。バタン、と扉が閉まった数秒後、ガチャンと鍵のかかる音がして、そこでやっと、室内は静寂に包まれた。  喉が痛い。鼻水がずるずる出てうっとうしい。頭がぼうぼうする。そのせいか、なんだかやたら、情けない気持ちになってしまう。  でも、熱が出たのは、ある意味好都合だった。結果的に、奈々に嘘をつかずに済んだから。……いや、まあ、厳密に言うと嘘はしっかりついたんだけれど、でも、説得力が出たっていうか、結果的に本当になったっていうか。  昨日、屋台の影で話す二人の姿を見て、回れ右をして家に帰った後、まさかそのまま何の連絡もしないわけにはいかず、わたしは奈々にメッセージを送信した。 『ごめん、なんか体調悪くなっちゃって、先帰る』 『ほんとごめん!』  土下座をするくまのスタンプを添えて送信すると、ものの数秒で既読がついた。そして、やっぱりものの数秒で返事が返ってきた。 『大丈夫?』 『人酔いしたのかな~!? お大事にね!』  その毒気の全くないかんじに、わたしは自分のことが更に嫌になった。メッセージの後に送られてきた、心配そうに眉を寄せる女の子のスタンプを眺めながら、「うー」とうなり声を上げたりもした。  ずず、と鼻をすする。瞼を閉じて枕を抱きしめると、うとうとと眠たくなってくる。窓の外から、ゴミ収集車の妙に陽気な音楽が聞こえてきて、それがまた一層眠気を強くする。  そういうものにあらがうなんて無駄なことはせず、わたしはそのまま素直に意識を手放した。    次に目を覚ました時、体の熱さは収まっていなかったけれど、だるさや頭痛はだいぶよくなっていて、自分のその回復力に驚いた。  時計を見る。時刻は十六時半。  ……おどろいた、随分眠ってしまっていたみたいだ。  のそのそと起き上がってリビングに行くと、今朝の言葉の通り昼に一度帰ってきたのであろうママからの書置きがあった。   『ぐっすり寝ていたので、ママは仕事に戻ります。冷蔵庫にりんごとゼリー、お鍋におかゆがあります。ちゃんと食べること! 調子が悪くなったらいつでも連絡して。』    書置きのおしまいには、きれいな楕円じゃなくて、先生がテストの採点をする時みたいなちょっと乱れた〇に、棒が二本とナイキのロゴみたいな口がついた、ママがよく描く雑なにこちゃんマークが添えられている。冷蔵庫をあけると、懸賞でもらったムーミンのお皿の上に、ウサギ型の林檎がいくつか並び、ラップでくるまれていた。  一時間しかない休憩時間に、わざわざ自転車を漕いでここに戻ってきて、おかゆを作ったり林檎を剥いてくれたりしたのだろうか。スーパーのパートは立ち仕事で、疲れているはずなのに。  そう思うと、ありがたさと共に胸にぐるぐると罪悪感のようなものが渦巻いて、それを払拭するように、わたしは林檎をひとつ口に含んだ。しゃくっ、と音が鳴って、甘い果汁が口に広がる。全然意識をしていなかったけれど、ものすごく喉が渇いていたみたいで、わたしは林檎を二つ三つとあっという間にたいらげてしまった。  体温計を脇に挟んで、体温を確認する。三十七度三分。うん、平熱よりはまだちょっと高いけど、朝よりはだいぶよくなった。  壁かけ時計をもう一度見る。いつもなら、ママがパートから帰ってくる時間を少し過ぎている。今日はちょっと遅いみたいだ。何かあったのだろうか。  扇風機の風にあたりながらぼんやりそんなことを考えていると、ちょうどよくガチャンと音がした。 「あ、お帰、り…………どうしたの?」  帰ってきたママは、ぼんやりとうつろな目をしていた。動揺しているみたいだった。エコバッグをとすんと床に置いて、そのまま真っすぐ、亡霊みたいな足取りで椅子に座る。 「……ママ?」 「……今日ねえ、帰りがけ、中村堂さんって、ほら、あの古い文房具屋さんの前に、パトカーが停まってたの。ママ、気になってちょっと覗いてみたら、歩くんがいた」  その名前に、わたしは心底ぎくっとして、 「万引きですって」  ――心臓が、本当の本当に、痛くなった。 「初犯だし、ほら、あそこのおじさんはあんたも歩くんも顔馴染でしょ? 昔から良くしてくださってて。だから、今回かぎりは厳重注意で穏便にって、庇ってくださってね。ママ、ちょうど通りがかったから、歩くんと一緒にお店のおじさんとお巡りさんに謝って帰ってきた」  言い切ると、ママは眉間を揉んだ。今にも泣き出しそうな表情だった。無理もない。小さなころから、わたしとずっと一緒だった歩。ママにとっては歩だって、自分の子ども同然に思えていたのだろう。 「ママ、なんだかすごく、悲しくなっちゃった」  ママは一度、泣きそうな顔でそう言って、 「すごく、悲しくなっちゃったよ」  と。  やっぱり泣きそうに、繰り返した。    わたしの夏風邪はその後しばらく尾を引いて、一週間くらいの間けんけんこんこんと咳が止まらなかった。でも、その方がかえって都合が良かった。  色んなことが起きすぎて、外に出ること自体がなんだかすごく億劫に思えたし、だから家の中にいる正当な理由があるのは心強かった。  べつに、わたしが家にいたって誰に何を言われるでもないことはわかっている。でも、『外に出たくなくて家にいる』のと、『風邪を引いているから家にいる』のとでは、気持ちの持ちようがだいぶ違う。そして、その気持ちの持ちようというやつは、今のわたしにとってはかなり重要なことなのだった。  わたしの夏休みは、だから、そんな風に呆気なく終わっていった。  終わりかけの線香花火が急ぎ足で火花を散らすみたいに、呆気なく。    新学期の教室に、歩の姿はなかった。  わたしはそれに、ほんの少し悲しくなって、ほんの少しホッとした。 「ねえねえ! 須藤くん、万引きして捕まったんでしょ?」  でも、その“ホッ”は、すぐに打ち消されることになる。登校するや否や、普段話しかけてもこないようなクラスメートたちがわたしの元へ寄ってきて、わくわく、きらきら、と効果音がつきそうな瞳でそう訊いてきた。 「五組の佐々木が現場見たって!」 「盗った商品横流ししてお金稼いでるってホント?」 「てか、少年院送りになったんだよね!?」 「バカ、万引きくらいじゃ少年院には入らないだろ」 「隣町の暴走族に入ったとか、」 「違うよ、ヤクザの仕事手伝ってるんでしょ? ほら、水商売やってるお母さんの知り合いの」 「純ちゃん、どうなの?」  くらくらした。  わたしは深くため息をついて、「あいつに、そんな度胸あるわけないでしょ」と短く言った。それ以上話しかけてこないで、の意味を込めてドカッと自分の席につくと、周囲はそれを察したのか一瞬静かになり、そしてやっぱり一瞬で「二年になってから様子おかしかったもんな」「もう学校来ないのかな」「来れないだろー、こんなに噂広まっちゃ」と話が再開された。  久しぶりに着た学校の制服は、ひどく窮屈だ。  わたしは、ひょろひょろのリボンをぎゅっと握りながら、いら立ちを外へ逃がすようにため息をついた。 「純、おはよ!」  そこに、爽やかな風が吹いてきた。顔を上げると、奈々がいた。にこにこ笑って、嬉しそうに「体調どう?」と訊いてくる。奈々が来ると、買ったばかりの塗り絵に最初の色がついたように、視界が華やかになる。 「ん、もうだいじょぶ。お見舞いありがとね」 「んーん。うちのママが、どうしても持っていけって。でも、おいしかったでしょ? あのスイカ」 「超おいしかった。パパなんて、皮の部分スレスレまでスプーンでこそいで食べてた」 「あはは! ママが聞いたら喜ぶよ」  奈々はあの後一度、うちにお見舞いにきてくれた。風邪をうつすと悪いからって理由で、顔を合わせることはなかったけれど。  ……いや、本当は、奈々がお見舞いに来た頃には、風邪なんてほとんど、完璧といっていいくらいに治っていた。だから、会おうと思えば会えた。でも、会わなかった。  奈々と話をするのが、怖かった。  もし――もしも、歩と付き合うことになった、なんて言われたら、わたしはきっと、色んな感情がごちゃごちゃになってしまうだろうから。そして、ごちゃごちゃになったら、前と同じように笑えなくなる気がしたから。  そうこうしている間に担任がやってきて、久しぶりだなとか、宿題ちゃんとやったかとか、当たり障りのないことを喋ったのち、何事もなく授業が開始される。夏休み前の延長みたいに。長い夏休みなんて、なかったみたいに。 「吉野、悪いんだけど、ちょっと来てくれるか」  放課後。さっさと帰ろうとしたわたしを、疲れたような顔で担任の小田先生が引き留めた。わたしは奈々と顔を見合わせ、ぱちくりと瞳を瞬かせた。 「須藤のことで、ちょっと」  続けざまに放たれたその言葉に、ああ、と納得する。ていうか、声をかけられた時点で、薄々そうだろうとは思っていた。 「わかりました」 「純、あたしも行こうか?」 「ううん、大丈夫。先帰ってて」 「でも、」 「大丈夫だから」  思いのほか、強い言い方になってしまって、自分で自分に驚いた。奈々も驚いた顔をしている。わたしは慌てて「だって今日、ほら、ピアノの日でしょ? 早く帰んなきゃじゃん」と言った。 「今日はピアノじゃなくて、英会話だけど……」 「あ、そっか、そうだった。とにかくうん、忙しいでしょ、」 「……わかった。じゃ、先帰るね」  奈々はやっぱり心配そうにしながらも、鞄を肩にかけてわたしに手を振った。  担任に連れられて廊下を歩く。周囲から時折飛んでくる視線は、これからまさに刑が執行される囚人を見るかのようだった。  職員室の向かいにある、『生徒指導室』に入るのは、はじめてのことだった、入るとすぐ、靴を脱ぐ狭いスペースがあって、小さな段差の向こうは畳の部屋が広がっている。学校の中に、こんな部屋があるなんて知らなかった。  畳の部屋にはおばあちゃんの家にあるような年季の入った木のテーブルが一つ置かれていて、入って左手の壁側に、校長先生が座っていた。 「ああ、こんにちは」  毎週月曜の全校集会では必ず顔を見かけるけど、こんな風に一個人として話しかけられるのははじめてで、わたしはなんだか妙に緊張してしまった。  校長はわたしのそんな緊張を見透かしてか、どこか気分良さそうに「そんなに固くならなくていいから、はは」と言った。室内はわずかに香水のにおいがして、それがいかにもおじさんくさくて、わたしは僅かに顔をしかめた。 「早速だけど、須藤のことで、お前に訊きたいことがある」  小田先生と校長が並んで座り、わたし一人を真っすぐに見る。小田先生はまだ若い、二十代の先生だから、もう五十歳を過ぎているであろう校長先生の隣に座ると、わたしたちと同じ子どもみたいに見える。 「夏休み中に、須藤が何日も家に帰らなかったってことは、お前も知ってるな?」 「……はい、まあ」 「聞いた話によると、大学生のグループとつるんでるとかどうとか。髪を染めたのもその影響だと俺は思ってるんだが、お前、何か訊いてないか?」 「何かって、なんですか?」 「だから……どうして急に、そんな風になったのか。二年の春まではあいつ、成績もそんなに悪くない、優等生だったろ。それが、急にあんな風になるなんて、何かきっかけがあったとしか思えない」 「はあ」 「君ももう、知っているだろうけれど、」  小田先生の横でずっと黙っていた校長が、不意に口を開いた。話すと目じりの皺が一層濃くなる。 「彼はこの夏、窃盗で警察のお世話になってね。君のお母さんが立会人になったんだろう? 幸い初犯だったからって、厳重注意で済んだようだけど」 「それが、どうしたんですか」 「うん。こんなこと、本当は言いたくないけれど……彼は、本当に初犯だったのかな。君、どうだろう。例えば今回より前に、盗んだものを自慢されたりとか、しなかった?」  びっくりした。何を言われているのか、よくわからなかった。いかにも優しそうな笑顔を浮かべながら、そんなことを訊いてくるなんて。 「中学生くらいの、特に男の子はね、ちょっと悪い年上のグループに影響を受けたりしてしまうことは、そう珍しくないんだ。そういう風になってしまう理由はいろいろあるけれど……単純にお金が欲しいとか、周りの大人に対して不満があるとか、あとは、女の子の気を引きたいとか」 「歩は、そんなバカじゃありません」 「うん、そうだよね。もちろん、我々もそう思っているよ」  強く言い返したつもりなのに、子猫をなだめるみたいに柔く躱されてしまう。慣れてますよ、君みたいなのの扱い方は知り尽くしていますよとでもいうように。  ものすごく――声も届かないほど、ものすごく遠くにいる人と話しているってかんじがする。何を言ったって、到底届かない。  そしてきっと、届かない言葉はなかったことにされてしまう。 「学校側としても、これ以上事態を大きくしたくはないんだ。君たちみたいに多感な時期にある子は、周囲の影響を驚くほど受けやすい。まあ、そういうことは、君たち自身にはまだよくわからないだろうけれどね。須藤くんにそんなつもりがなくても、周りの子たちが須藤くんの影響を受けてしまうかもしれない。……そうなる前に、事態を穏便に解決したい。もちろん、須藤くん自身のためにも。わかるね。わかってくれるね?」  わたしは、相変わらずの笑みを浮かべる校長先生の目を強く、強く訴えるように見て、それから小田先生に視線を移した。小田先生は一瞬ぎくっとしたような顔になって、それから「どうだ、吉野。何か、何でも良い、知ってることはないか?」と言った。 「……わたし、知りません。何も」  喉のあたりが苦しい。ぎゅうっと思い切り、首を絞められているみたいに。 「でも、」  真っすぐ前を向く。そうしないといけない気がしたから。 「でも、でも歩が、お金が欲しいとか、周りの大人に何かをわかってほしいとか、ましてや女子の気を引くためだけに悪事を働くような奴じゃないってことくらいは、知ってる」 「……うん、そうなんだね」 「その、『うん』って言うの、やめて。なんにもわかってないくせに、わかったような顔しないで」  そう言うと、校長は表情を凍り付かせ、小田先生はわかりやすく顔を青くした。  室内に、沈黙が広がる。生徒指導室の外から、これから部活へ向かうであろう生徒たちの騒がしい声や足音が聞こえてくる。 「……それじゃあわたし、もう行くので」 「おい、待ちなさい、吉野。なんだ今の口のきき方は。校長先生に失礼だろ!?」 「いや、いい、いいんですよ、小田先生」  校長はすぐに、さっきまでの優しい笑みを浮かべ直した。どんなに虚を突かれても、大人は立て直すのが随分早い。 「ようするに君は、須藤くんから本当に何も聞かされていなくて、何一つ事情を知らないわけだ。幼馴染の君になら信頼して何か相談しているかもと思ったんだが、見当違いだったみたいだ。悪かったね、もう行っていいよ」  穏やかに聞こえるその言葉には、確かにトゲがあった。小田先生のような若い先生の前でコケにされたのによほど腹が立ったのか、元々沸点が低い人だったのか。べつにどっちでもいいけど、わたしみたいな中学生にムキになっているようでは、タカが知れているというものだ。 「失礼しました!」  わたしはわざと大きな声でそう言って、やっぱりわざと、大きくぴしゃんと音をたてて戸を閉めた。たまたま通りがかった周りの人たちが、生徒指導室から憤怒の表情で出てきたわたしを、興味深そうに眺めてくる。こりゃ、明日には噂のターゲットが、歩からわたしに代わっているかもしれない。どうでもいいけど。  近頃妙に、色んな人が、色んなことを言ってくる。言われるたびに、背中にどしんと何かが圧し掛かる感じがする。重くて、そのままどんどん沈んでいって、でんぐり返ししてしまいそう。そのままごろごろ転がっていって、どこか遠くへ行けたらいいのに。  下駄箱で靴を履き替えて、外へ出る。野球部たちが練習をしている。その集団の中に、あの日、お祭りで辻くんをいじめていた奴らがいるんじゃないかと、なんとなくそんなことを思ったが、坊主頭の男子中学生なんてみんな同じに見えて、すぐにふいっと視線を反らした。  なんとなく、そのまま真っすぐ帰る気になれなくて、わたしは町をぶらつくことにした。  少年野球のチームがランニングをする河川沿い、暑さのせいか、人っ子一人いないバスロータリー、錆びた自転車が放置された公園。  でも、どこへ行っても、制服姿でいかにも所在なさげなわたしの存在は、なんだか浮いている気がした。子どもって――中学生って不自由だ。どこか遠くへ行きたくたって、働けないからお金が稼げないし、お金が稼げないとどこへも行けないし。  それからわたしは、自然とそこへ流れ着いたかのように、学校から少し離れた閑静な通りにある、ガラス張りの建物へと足を延ばした。  その建物は、ススキ台グリーンセンターといって、簡単に言えば市が運営している小さな植物園だ。入園料は無料で、誰でも自由に出入りできるのに、大通りから少し離れているのと、長い階段を上らないとたどり着けないちょっと不便な立地にあるせいか、いつ来てもがらんとしていて人気は少ない。  温室にはたくさんの植物たちが背を伸ばして生き生きと生えている。パキラとかポトスとかモンステラとかの合間を抜けて、外のガーデンコーナーに出る。  植物を見ていると、ほっとする。ただ水を吸って、肥料を吸収して、咲いては枯れてを繰り返してゆく。その単調さが、好きだ。  ガーデンベンチに腰かけてぼうっとしていると、視界の端でちらりと人が動く気配がした。その人影は、まるで誰かを探しているようにしばらくわたしの視界を行ったり来たりしている。振り向いて目があったら気まずいし、と思ってじっとしていると、そこで、館内にアナウンスが流れはじめた。『――当館は、午後五時で、閉館となります。本日も、ご利用いただき……』 「……あれ? やっぱりあなた、この間の子じゃない?」 『――まことに、ありがとうございます。またのご来館を……』の声をバッグに、その人はわたしの顔を覗き込んだ。その拍子に、なんだか胸がギュウッとなるような、とても良い匂いがした。 「やっぱりそうだ! あたしのこと、覚えてる?」 「や……」 「すみませーん、もう閉館でーす」 「あ、はーい! ……ねえ、ここで会ったのも何かの縁だし、ちょっとお茶しようよ。奢るから。ねっ? そうしよ!」  ぐい、と半ば強引に手を引かれる。沈みかけの夕日を背に、長い金髪がゆらりと揺れる。  世界がぐるんと、まさしくでんぐり返したみたいに一周して、わたしはその人――八千代さんに引かれて植物園を出た。
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