第一章・青い瞳の女

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 ソ連軍は、日本政府が降伏文書に調印した昭和二〇年九月二日のあとに、歯舞群島の占領に乗り出した。輝子の一家は、二年間ソ連軍占領下の志発島に抑留された後、家屋・財産を奪われ、日本へ強制送還された。  終戦時一四歳だった輝子は、ソ連兵からレイプされそうになったり、衛生・食糧事情が悪化する中で、幼い弟を亡くしたりした。そうした過酷な経験から「女傑」とも呼ばれた苛烈な人格を培った輝子は、北方領土返還を求める元住民の団体・千島列島居住者協会(千島協会)の理事を長く務めた。    だが、海を見ながら語り掛ける輝子の横顔は、いつも穏やかで楽し気だった。よっぽど楽しい思い出があるらしい。大勢の男たちを前にした厳しい表情と、がらりと変わる顔つきから本田は想像した。そんなに楽しいところなら僕も行ってみたいなぁ―― 岬に連れていかれるたびに本田は、夏には濃い霧に覆われる彼方の島々に思いをはせた。  あの美しい青と白の世界の先に何があるんだろうか―― 憧れは尽きなかったが、同時に入りこんだら二度と帰って来られないような恐れを抱いたりもした。  結局、そんな好奇心が本田をロシアという国に向かわせた。  今、かの国の都・モスクワで相対した娘の瞳を見つめた時、あの青い海と白い霧に覆われた島々を眺めていた頃の思いがよみがえってきた。一度深みにはまれば抜け出せなくなるような恐れだ。
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