エイプリルフールの午後

3/5
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
「正確に言うと、『見殺しにした』って感じかな。相手は、そのとき母の恋人だったひと。人にすぐ序列をつけて、人を見下すことで自分の存在意義を見出だすような男」  最低だよ、と彼女は冷たく笑って、わたしの代わりにきゅっと水道の蛇口を捻った。水の流れる音が止み、代わりにぽた、ぽた、と水滴が落ちる音が始まった。 「籍はまだ入ってなかったんだけどね。一緒に住み始めたら、わたしと母は自動的に序列の最下位になった。日頃の言動もひどかったけど、酔うとさらにひどくなった。でも、何よりひどかったのは、時々帳尻を合わせるように『いい夫』『いい父親』を演じようとすること」   知らないひとの、知らない声を聞いているような気分だった。今ひとつ締まりの悪い蛇口からは、水滴が落ち続けている。 「外食とか、旅行とか。普通の家族が普通にするようなことをして、そして感謝を強要する。おまえたちがこんなに幸せなのは、俺のおかげだ、感謝しろ、ってね。何を言ってるんだろうって思ってたよ。あのひとがいなくとも母はわたしを育てていくのに十分な収入を得ていたし、母とふたりきりの生活で、わたしは十分に幸せだったんだから」  ぽた……ぽた……ぽた。少しずつ、水滴の間隔が空いていく。 「もそういうのの一環で、わたしだけ連れ出された。夏休みに娘と山に楽しくお出かけしたっていう、いい父親の実績づくり。本当に、くだらない。わたしがそんなふうに思ってたことは、言葉には出さなかったけど、何となく伝わっちゃうもんなんだね。途中から説教が始まった。相手には、何の悪気もない。自分がいなければ何もできない、出来の悪い娘を指導してやってる、って思ってる」  彼女が、ちらりとわたしの手元に目を向けた。 「たとえば、そのアイスのあたり棒は、アイスと引き換えられると知っているひとがいるから価値がある。でもそのことを誰も知らなかったら、ただの木の棒でしかないよね。知っているひとがいることで価値が生まれるなら、その逆は? わたしのことをだめな人間だと認識し、声高に主張するひとがいることで、わたしはどんどんだめになっていく気がした」  蛇口に溜まっていた水が落ちきったのか、水滴の落ちる音はもう聞こえなくなっていた。 「だから殺した──見殺しにした。注意したのに、『怖いのか?』なんて言って、勝手に立ち入り禁止区域に入っていって、崖から落ちた。落ちて動かなくなったけど、息はあったかもしれない」 「でもそれは……大人ひとり助けるなんて、子どもには無理だったんじゃ……」 「自力で助けられなくても、助けを呼ぶことはできた。でもわたしは何もしなかった。母には、『おとうさんは用事ができたから、ひとりで帰れって言われた』と報告して迎えに来てもらって、それでおしまい」
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!