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「うわ、騙された」
朝職場の後輩が、昨日のお礼ですと言ってカブトムシの標本をくれた。何で虫なんだろう? と思いながら受け取り、よく見ると中身はチョコだった。ちょっとしたドッキリである。
「びっくりした。それにしてもこれ、よくできてるね」
木の上などで見かけたら絶対にチョコだとは思わない。思わずまじまじと見ていると、後輩が苦笑いした。
「全然、びっくりしたって顔じゃないですよ。先輩を驚かせようと思ったのに」
「昔、死ぬほど驚くことがあったから。そのとき一生分の驚きを使い果たしたのかも」
「そんなことあります?」
あのあと彼女は、母親の転勤でまた引っ越してしまった。しばらくは連絡を取り合ったりもしていたはずだが、いつしか疎遠になってしまった。
ちょうど今日は、あの日と同じ四月一日だ。
「ああ、もしかしてこれ、今日がエイプリルフールだから?」
「まあ、そうです。でもお礼というのは嘘じゃないですよ。見た目はともかく、中身は結構いいお店の、おいしいチョコです」
「そっか。ありがとう。でも確か、このあと外だったよね? 準備もあるだろうし、お昼のときに渡してくれてもよかったのに」
直属の後輩なので、相手のスケジュールは把握している。朝礼後は社外に出る予定になっていたはずだ。
「だってほら、嘘をついていいのは午前中までって言うでしょう」
「……え?」
「エイプリルフールに嘘をついていいのは、午前中まで。午後は種明かしの時間だって、よく言いますよね」
記憶の中で、何か引っかかるものがあった。
確かあの日は昼過ぎまで部活で、公園に着いた時点ではもう午後になっていた。たとえエイプリルフールであっても、午後に嘘をついてはいけないのだとしたら、彼女が打ち明けてくれた秘密はすべて、本当のことだったのではないか?
──人を、殺したことがある。
「先輩? どうかしましたか?」
「ううん、何でもない。チョコ、ありがとう」
わたしは虫チョコをデスクの引き出しにそっとしまい、少しの間目を閉じた。彼女がそんなルールを意識していたかどうかは分からないし、分かったところでもう遅い。
彼女との思い出は、楽しいものもそうでないものも含めていろいろあったが、彼女のことを思い出そうとするとき真っ先に出てくるのは、水の音だ。アイスの棒を洗った水道の蛇口から、ぽた、ぽた、と水滴が落ちる音。どこかで今も、冷たい水がゆっくり落ち続けている。
end.
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