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長久保くん
早瀬川まつりの朝は遅い。
十時起床。顔さっと洗って歯磨きして、スマホとスケッチブックとペンケースをリュックに入れて三十分散歩。
お気に入りの喫茶店でモーニングセットを食べながら、メールチェックと、今朝見たおもしろいひととか光景とか、思いついたエピソードを描く。
今朝は長久保くんという担当さんからメールが来ていた。
「早瀬川さん、いつもお世話になっております、長久保です。
先日お願いしたカットの件なんですが、一応最後のカットなのですが、もしかしたら最後のカットは別にお願いするかもしれなくて」云々。
意味がわからない。長久保くんの文章は、いつ読んでも悪文である。仕方がないので、まつりは長久保氏に電話を掛ける。
「はい、長久保です。ただいま電話に出ることができません。御用の方は―――」
「なんで出ないかなあ! 長久保のドアホは! あっ!」
長久保のドアホと詰ったのがいけなかったのかもしれない。
まつりは持っていたスマホを、大きなマグカップに入ったコーヒーのなかに落としてしまった。がちゃんと音は鳴ったがカップが割れることはなく、ジジ、ジジ、と明滅して、スマホは息絶えた。
「あ! ああ! うわあ……わあ、どうしよう……はああ……」
コーヒーのなかからスマホを救い出したものの、復活するようにはどうにも思えず、まつりは長い溜息をついた。
顔なじみの店のおばさんが来て
「あらら。まつりちゃんやっちゃったね。これは、だめかもしれないねえ」
と、店のタオルで携帯を包み、机の上にこぼれたコーヒーを別のタオルで拭いてくれた。
「そうですよね……きっとだめですよね……」
五分前の自分に忠告してやりたくなってしまう早瀬川まつり。でも漫画じゃあるまいし、そんなことできるわけもない。
「まつりちゃんのお気に入りのパーカーも汚れちゃったね」
そう言われて見て見ると、ベージュのパーカーの胸のあたりに、盛大にコーヒーの染みがついていた。
うわあ、最悪だ、最悪だ。口に出して言いたい、最悪だって。でもおばさんの目の前で、言えないし。やらかしたのは自分なのだ。
「早いうちに携帯ショップに行ったほうがいいよ。まつりちゃんも、仕事に差し支えるでしょ」
「そう、ですね。おばさん、ありがとう。おばさんがいなかったら、泣いてたかも」
なんのことはない、おばさんがいても泣いている早瀬川まつり。おばさんは優しくハグしてくれた。
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