長久保くん

1/1
前へ
/14ページ
次へ

長久保くん

 早瀬川まつりの朝は遅い。 十時起床。顔さっと洗って歯磨きして、スマホとスケッチブックとペンケースをリュックに入れて三十分散歩。 お気に入りの喫茶店でモーニングセットを食べながら、メールチェックと、今朝見たおもしろいひととか光景とか、思いついたエピソードを描く。 今朝は長久保くんという担当さんからメールが来ていた。 「早瀬川さん、いつもお世話になっております、長久保です。 先日お願いしたカットの件なんですが、一応最後のカットなのですが、もしかしたら最後のカットは別にお願いするかもしれなくて」云々。  意味がわからない。長久保くんの文章は、いつ読んでも悪文である。仕方がないので、まつりは長久保氏に電話を掛ける。 「はい、長久保です。ただいま電話に出ることができません。御用の方は―――」 「なんで出ないかなあ! 長久保のドアホは! あっ!」  長久保のドアホと(なじ)ったのがいけなかったのかもしれない。 まつりは持っていたスマホを、大きなマグカップに入ったコーヒーのなかに落としてしまった。がちゃんと音は鳴ったがカップが割れることはなく、ジジ、ジジ、と明滅して、スマホは息絶えた。 「あ! ああ! うわあ……わあ、どうしよう……はああ……」  コーヒーのなかからスマホを救い出したものの、復活するようにはどうにも思えず、まつりは長い溜息をついた。 顔なじみの店のおばさんが来て 「あらら。まつりちゃんやっちゃったね。これは、だめかもしれないねえ」  と、店のタオルで携帯を包み、机の上にこぼれたコーヒーを別のタオルで拭いてくれた。 「そうですよね……きっとだめですよね……」  五分前の自分に忠告してやりたくなってしまう早瀬川まつり。でも漫画じゃあるまいし、そんなことできるわけもない。 「まつりちゃんのお気に入りのパーカーも汚れちゃったね」  そう言われて見て見ると、ベージュのパーカーの胸のあたりに、盛大にコーヒーの染みがついていた。 うわあ、最悪だ、最悪だ。口に出して言いたい、最悪だって。でもおばさんの目の前で、言えないし。やらかしたのは自分なのだ。 「早いうちに携帯ショップに行ったほうがいいよ。まつりちゃんも、仕事に差し支えるでしょ」 「そう、ですね。おばさん、ありがとう。おばさんがいなかったら、泣いてたかも」  なんのことはない、おばさんがいても泣いている早瀬川まつり。おばさんは優しくハグしてくれた。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加