散ればこそ

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この世から桜がなくなった。 人々は気づかず、むしろ今までそんなものがなかったかのように生きている。 誰も、桜の存在を知らない。 『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』 学校での古典の授業。 伊勢物語八二段、『渚の院』の中で、主人公である在原業平が詠んだとされる和歌。 『世の中にもし桜が全くなかったのならば、春の訪れを待つ人々の心は穏やかなままでいられるだろう』 その現代語訳は、桜の季節が近づいたときに日本人の心に現れる感情を浮き彫りにした。いつ咲くのか、いつ散ってしまうのか。一喜一憂する日本人の心を現した歌だ。転じて、そのくらい日本人は桜に心奪われているのだと象徴するものでもあった。 私はひどく感銘を受けた。 そして、「桜なんてなくなってしまえ」と思った。 なぜって? 桜が嫌いだから。 そして、次の春から、桜はなくなった。 桜の木があった場所には別の植物の木が植えられている。秋になると真っ黄色になるからそういうことなんだろう。 本来薄いピンクの花吹雪で覆われるはずの先輩の卒業式も後輩の入学式も、空はただただ澄んだ青地に白い雲がたなびくだけだった。土手や公園や川沿いで繰り広げられるその時期の酒宴なんてものは存在せず、カメラを持ち出す人間もいない。観光地は秋に比べて春の料金が安くなった。 春になったとしてもなんてことはない。人々の心は完全に穏やかなものとなってしまった。 昔の人が読んだ和歌。 「花」と入っていればそれは「桜」を意味するものが多かったけれど、気が付いたらそれらはすべて「梅」を意味するものに変わっていた。 私の生活も、桜がなくなったとしてもなんてことはない。 むしろなくなってくれたほうが生きやすい。誰も私と桜を比べない。桜を通して私を見ないから。 変わらず学校に通い、かったるい授業をする先生を見ながら、静かにその日を過ごす。もともと桜について一緒に一喜一憂する友人もなく、ただ代わり映えのない日々をこのまま変わり映えしないようにと祈りながら過ごしていくのだ。非日常とかイベントなんていらない。 いや、ひとつだけ変わったことがある。 うちのクラスに2週間くらい前から教育実習生が来たことだ。新学期早々になんて、慌ただしい。 彼の名前はちょっと、覚えてない。先生、と呼んでおけばたいていどうにかなる。 「探しましたよ、桜さん」 「あ、先生」 彼がその教育実習生。 そして彼は私が知る中で唯一。 「今年ももう少しで桜の季節ですね」 桜のことを覚えている人間だ。 「桜なんてもうないじゃないですか」 「ええ、残念です」 ここにいたのだ。まだ桜で一喜一憂している人間が。 「まだ国語のワークの課題を出してもらってませんよ」 「私もですか?」 「当たり前です。全員提出が必須です」 先生は現国の担当だ。 現国の、それも小説の分野は苦手だ。 傍線部のセリフを読んで、このときの登場人物の心情に近いものを、A~Eの中から選びなさい。 選べるわけがないと思った。人間の感情はたった5つに分類できるのだろうか。そのときの登場人物の感情はその登場人物にしかわからない。なんなら作者にもわからないのでは? じゃあ私たち読者になんてとても正確に推しはかることなんてできない。 果たして、私はだいたいにしてその設問を間違えることが多い。もしよかったら二十択くらいに増やしてくれないだろうか。そのうえでその選択肢を選んだ理由を自由記述させてほしい。5択しかない「心情」なんかよりも納得させる自信がある。 「明日持ってきますね」 「本当は今日欲しいんですけどねえ」 提出期限は今日までと言ってあったはずですが。 「一日一日を大切に生きないと。明日が同じように来るとは限らないんですよ」 この世は常に「無常」です。 先生がよく言う言葉だ。 仏教の考え方らしい。まだ大学生のはずだけど、人生2回目みたいな悟りを開いている。 「桜さんは、桜は好きでしたか?」 先生は私に聞いた。 「いえ、嫌いでした」 「おや。そうなんですね」 発した言葉とは裏腹に、全く驚いていないような平坦な声。 「先生は好きだったんですか」 「ええ、それはそれはとても」 「どんなところが?」 「桜は散り際が最高です」 「散り際」 満開時ではなく散り際。 「散るからこそ、桜は素晴らしい。この世に変わらないものなんてないのです。常に桜が満開だったらありがたみもないでしょう。散ってなくなってしまう儚さにこそ心奪われる。だからこそ欲する。そして来年、また同じように桜に出会えることを願うのです」 「ロマンティックですね」 「おや。バカにしましたか?」 「いえ」 今度は私から聞いてみる。 「花見におすすめの場所ってありました?」 今はもうないものだから、聞き方も過去形になってしまう。 「そうですね、交野(かたの)にある渚院(なぎさいん)でしょうか」 「渚院?」 「ええ。そこではよく歌を詠みました」 「歌…?」 いくら国語の先生と言っても歌を趣味にしているのだとしたら結構珍しい。 「あ、桜さん」 「なんですか?」 「桜さんは、僕が桜を元に戻す方法がわかると言ったら、元に戻したいと思いますか?」 先生の教育実習が終わるまで、あと1週間だ。 桜をもとに戻す方法なんてあるのだろうか。 なくなった直後こそ、自分がやってしまったことにひどく罪悪感を感じたりもしたけど、今となっては誰も覚えてないのだからそれも無駄なことと、心の奥底に閉じ込めたはずなのに。 「どうなんでしょう…ね」 「僕はぜひ戻ってほしいんです。そうじゃないと僕が生きた証が残らない」 「生きた証?」 「ええ」 そんなの、先生は今を生きているのに考える必要があるのだろうか。 「私は今の生活が続けば問題なくて。むしろ桜に戻ってきてほしくない」 「なぜです」 「またあの生活に戻るのが嫌だから。今が一番心地いいの」 「桜が嫌いだから?」 「そう」 すると先生は首を横に振った。 「言ったでしょう」 変わらないものなんてない、と。 「今の生活がずっと続いていくことなんて、ないんですよ」 先生は私に近づくと、耳元でささやいた。 「1週間後の放課後、渚院で待っています」 渚院の場所なんてわからない。 あれから何度も先生に聞いたのに、先生は教えてくれなかった。 そして今日は約束の日。そして先生の教育実習が終わる日。 でも、わからないものはわからない。 教えてくれないのであれば、行くことができない。 私は悪くないよね。 自分に言い聞かせて目を閉じた。 そして開けたときには。 目の前には満開の桜が舞っていた。 「おや。来ましたね」 先生の声。 振り向くとそこにはいつもの恰好ではない先生がいた。 「ふふ。驚きましたか。まあそうでしょうね」 先生は私にその装束がよく見えるよう両手を広げながらくるりと一周回った。 昔の人が着る服装だ。それも確か、昔の貴族が着るような。重ね着が多くて、変な靴で、頭には烏帽子。なんと勺まで持って。 まるで。 「平安時代?」 「おや。よく気が付きましたね。日本史は成績がいいほうでしたか?」 「ここは…、どこですか?」 「言ったでしょう? 渚院ですよ」 辺りには他にも先生と同じような服装をした男性がたくさんいる。そばには馬だって何頭もいた。 お酒を飲みかわし、楽しそうに花見をしながら歌を詠んでいる。その様子は、現代でまだ桜があったころに行われていた花見となんら変わらない。楽しくて、うるさくて、ゴミが出ても騒いでも近所迷惑で、それでいて、1年に1度しか得られない刹那の非日常。 桜吹雪はそんな向こうの宴と私たちを隔てるように舞う。花びらの量は見たことないほど尋常で、格別晴れやかに美しい。 「いいでしょう? ここの桜は素晴らしいので、あちらの惟喬親王(これたかしんのう)にお付きして毎年伺うのです」 飛びぬけて豪華な衣装を身にまとい、人だかりの中心に座るその人物は明らかに高貴で、身分の高い人だということがわかる。 しかし、先生の口から溢れる言葉たちは私の口から言葉を奪う。返事もできない。 「あ、あそこにいるのが在原業平ですよ。桜さんも彼ぐらいはわかりますよね」 伊勢物語の主人公とされている人物。 私が「桜がなくなればいい」と願ったきっかけの和歌を歌った張本人。 彼は親王のそばにいて、やはり歌を披露しているらしい。 「先生、あなたは…」 「言ったでしょう? 桜がなくなってしまったら僕の生きた証もなくなってしまうのです。それは困るので、直接あなたにお願いしに行きました。桜を戻すように」 「おい、誰かと話してるのか?」 宴の人だかりから抜けてやってきた男性がひとり先生に話しかける。 不思議そうに先生の顔をのぞき込む。 「ああ、申し訳ない。もう戻るよ」 「虚空に向かって話しかけていたような。まさか怪異の類じゃ」 「違う違う。ちょっとね、歌を練っていて。独り言だよ」 「ほほう。じゃあ、その練っていた歌を披露しろよ。業平さまの歌にうまく返歌できるやつがいなくてな」 男性は先生を引っ張っていく。 先生がちょいちょいと手招きするので、ついていく。どうやら私の姿は、先生以外には見えないようだ。 『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』 聞こえてきたのは、授業で聞いたあの歌だった。在原業平という人が詠んだもの。誰もがその素晴らしさに感嘆のため息をもらす。 「ほら、お前行けよ」 男性が先生を突いた。先生は立ち上がり、歌を詠む。 『散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき』 『散るからこそ、桜はいっそうすばらしいのです。このつらい世の中で一体何がいつまでも変わらずにいることができるでしょうか、いやできません』 私が桜のどこが好きなのか聞いたとき、あなたはそう答えた。 思わず一歩を踏み出す。だけどそのとき、またもや桜吹雪が舞った。 今度は私と先生の間を隔てるように。 「桜さん」 向こうから先生の声が聞こえる。 「あなたは前を向かなくてはいけない。あなたが自分で消してしまった自分を取り戻してください。この桜吹雪が収まったとき、あなたは元の世界に戻るでしょう。そのとき、世界には桜も戻っている。そして、あなたの存在も元にもどります。 あなたは変わらないことを望んでいた。しかし、変わらないものなんてないんです。辛いことも永遠に続きはしない。きっと楽しいこともやってきます。自分が消えてしまえば楽にはなるわけじゃない。 この世は無常。常にありつづけるものなんてない。明日が当たり前に来るとは限りません。だけど、将来のこととか、難しいことを考えなくてもいいんです。ただ、今あるこの時を、その一瞬を大切にできればいいのです。今この瞬間のあなた自身を大切にできたら、いつか訪れるそのときを、後悔せずにいることができるから」 「せ、先生…!」 先生の表情が桜にさえぎられて、もう見えない。 思わず手を伸ばしても、もう届かなかった。 「お別れです。桜さん。あなたに会えてよかった」 「桜? どうしたの?」 目を開けると、そこは雑然とした教室だった。 前の席に座る美紀が私の顔をのぞき込んでいる。 「美紀、私のこと見えるの?」 「はあ? どうしちゃったの。ホームルーム始まるよ?」 彼女はそう言うと前に向き直る。 新学期にふさわしい委員会決めやクラスの係決めが始まるらしい。 「おい、誰か、学級委員をやってくれる女子はいないのか」 新たに担任になった男性教諭が声を上げる。黒板には男子生徒の学級委員の欄しか名前が埋まっていなかった。 私は手を挙げる。 「おお、立候補してくれるか?」 「いいえ、美紀がやればいいと思います」 「えっ! ちょっと!」 先生、私はまだ桜を好きにはなれなさそうです。 だって、相変わらずこの世は生きづらくて、ことあるごとに自分の存在を消したくなります。 あれから伊勢物語の『渚の院』の歌を調べてみたら、ひとつは確かに在原業平の詠んだものだった。だけどもうひとつの和歌の作者は「詠み人知らず」になっていて、作者名はわからずじまい。 先生の名前、なんだったっけな。 先生、私はまだ桜を好きになれないんです。 桜と自分の存在を比べてしまうから。 先生、私はあなたが好きだといった桜が嫌いです。 あなたが、ここにいないから。
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