恐怖

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恐怖

 リビングのドアを開けてすぐのキッチンの流し台。そこに健少年が立っていた。  水道からはじゃあじゃあと水が流され、ステンレスの流し台にぶつかってはあちこちに跳ねている。  さっきまで使っていた皿たちはまだ洗われた形跡もなく、銀色の底に重ねられていた。  その光景はいささか異様で、シュンは後ろ手でドアを閉めた格好のまま固まった。  「……健くん……?」  声はぎこちなくかすれた。健少年は振り向くことなく、深くうつむいた。  泣いている。ほとんど直感だった。健少年の横顔から、水道から流れる水とは少し違う液体がぽつりと流し台に弾けて消えた。  その涙の意味を、シュンは恐怖だと捉えた。  それはそうだ、昨晩自分を犯した男と同じ部屋に二人っきりでいたのだ。それは怖いに決まっている。胸のうちに蓄えられた恐怖が、台所で一人になった途端に涙になって流れ出したのだろう。  シュンにもそんな状況は覚えがあった。  母の恋人に犯されていたとき、その恐怖を運んでくる張本人がいるときには出なかった涙が、なぜだかそいつがいなくなった瞬間にぼたぼたと勝手に流れてくる。  だから、健少年の気持はよく分かった。  そして、自分がここにいてはいけないということも。  「……ごめん。」  ぎすぎすと喉の奥で潰れる声で、シュンは辛うじてそう言った。  健少年は振り向かなかったし、水を止めようともしなかった。なんなら、水の音で俺の声は聞こえていないのかもしれない、と、シュンは思った。思ったけれど、次の言葉を紡ぐときも声量を上げはしなかった。聞こえないなら、いっそ聞こえないでいいと。  「出ていくね。もう戻らないから、安心して。」  もう戻らない。それは、来週美沙子が戻ってきたとしても。  それがいいと思った。それしか、少年の涙を止める方法はないように思えた。  じゃあ、と努めて軽く言って、シュンは短い廊下を抜け、靴脱で靴に足を突っ込んだ。  誰か、今夜の宿を提供してくれそうな男か女はいただろうか、と考えながら。  今すぐ思い当たる人物が二、三人はいたし、そのあてが外れたらバーでナンパでもすればいい。  いつだってそうだ。もう10年以上そうやって生きてきた。女の家を出ることくらい、まったくもって大したことではない。  靴の踵を踏んだまま、シュンが玄関のドアを開けようとしたところで、背中になにかがぶつかってきた。
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