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父は善良な人だった。
幼い頃の病気の後遺症で四肢に軽い麻痺があり、それ以上に目立つ顔の傷を仮面で隠した奇異な姿ではあったが、私はあれほど心根の澄んだ人を見たことがない。
「お父さん……」
呟いた声は喉の奥に絡まって詰まったようなかすれ声になり、一人きりになった家の暗闇に吸い込まれる。
それは父が休んでいた寝室に、窓際で本を読んでいた書斎に、2人で語らったリビングに散り散りに吸われて霞のように消えた。
身じろぎすると喪服についた線香の匂いが室内に撒かれて、その度にもう父は居ないのだと思い知らされる。
涙はもう枯れ果て、ただ胸の奥に積もる痛みだけが虚ろなこの身にまだ心があるのだと教えている。
棺の中に眠った父は穏やかに微笑んでいた。
もう30年近く共に過ごしたというのに、私は父にどうしても言えなかった事が2つだけある。
そしてそれはどちらも言えなかった後悔より、言わずに終えられた安堵のほうが大きい秘密だった。
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