On dit que le goût de l'amour est deux-amer

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On dit que le goût de l'amour est deux-amer

 もうすっかり暗くなり、周りの家から夕餉の香りがし始めてから随分経った頃、響子は二人分の食事を入れた袋を抱えて匠の家の居間に座っていた。  匠はまだ帰っていない。閉店時間を過ぎて数時間になるが、ひとことすら連絡もない。店の片付けで手一杯なのだろう。バレンタインは帰宅が深夜になるのも当たり前だ。  いつもなら響子も、夜遅くに疲弊して帰ってくるのが分かっている今日(バレンタイン)に匠の部屋に押しかけたりしない。こんなことは初めてだった。  後ろめたい思いに胸が痛み、手の中にある匠の家の鍵を握りしめる。  ***  まだバレンタイン商戦も本格化する前の一月半ばのことだった。普段通り、響子がピアノの練習をしている傍で、匠がその日の業務記録をつけていた時、匠のスマートフォンのバイブレーションが鳴った。 「はい。ああ、しほ?」  響子がピアノを弾く手を止めると、匠は「続けていい」と身振りで示し、立ち上がってピアノに背を向けた。  だが、気にならないというのは無理な相談だった。 「悪い急に連絡して。え、なに? 電話の方が早かったから」  ——たくちゃんから連絡したんだ。  響子の指は鍵盤には戻ろうとしなかった。楽譜に鉛筆で書き込みをするふりをして、つい耳をそばだててしまう。 「うん、大丈夫。待って」  そっと背後を窺うと、匠が手帳とペンを取り上げ、何か書き込んでいるようだった。 「うん、解った、さんきゅ。ばっか、なに言ってんだよ。まぁでもいいよ、今度な」  最後は明るい声に変わり、匠は「またな」と言って電話を切った。 「しほさん?」 「ん? うん。ちょっと用事あって」  匠は手にした手帳をぱたりと閉じると、即座に鞄にしまってしまう。電話に出る前までは業務日誌の横に置いていたというのに。  何を書いたのかとも聞きづらく、視線のやり場に困って目を泳がせる。すると日誌の横に、匠の店で売るバレンタイン用商品のラッピング見本一覧があるのが目に入った。 「たくちゃん、バレンタインの夜、そっち行っていい?」  無意識に、響子の口から言葉が出ていた。  ***  朝出かけるとき、匠の家の鍵が小さな袋に入って響子の家の空っぽの郵便受けに転がり込んでいた。あの日響子は、十四日は深夜になるからという匠の心配を押し切って、夕飯を作って待っていると約束した。  しほは匠の同級生で、昔の彼女だ。ずいぶん前に別れたが、大のお菓子好きであるしほは匠の店の常連客でもあり、友人関係は続いている。響子も何度か店で会った。  匠としほが付き合っていたのはごく短い間だし、いまは向こうにも恋人がいる。つい年末に店で話したときにも彼氏へのプレゼントを買いに来たと言っていた。心配はないはずだ。  そう言い聞かせても、やはり引っかかってしまう。  何しろ恋愛には興味がなさそうで、女の子からきゃあきゃあ言われるのも苦手な、あの匠が付き合った女性である。しかもしほは柔和な人当たりでありながら芯が通っており、明るくて響子相手にも常に気遣いが行き届いていた。同性から見てもこの上なく魅力的だった。  しかも響子より三つ年上。しほの大人らしい物腰と雰囲気は響子には背伸びしても届かないもので、常に落ち着きのある匠と並ぶと思わず見惚れてしまうほどお似合いだった。  卑屈な気持ちや嫉妬が響子の希望に抗って喉元から外へ出てきそうになり、意識的に頭の中で言葉を綴る。  ——大丈夫。しほさんには素敵な別の彼氏さんがいる。いまのたくちゃんの彼女は私なんだから。  口には出さずに繰り返し、匠との日常を並べてみようとする。  ——あれ?  すると、あることに思い至ってしまった。  ——私、たくちゃんと付き合おうって言ったっけ?  思い返すと、気づけば一緒にいただけで、告白されて付き合う、という手順は踏んでいないことに気がつく。匠から好きだと言われたかすらも分からない。逆に響子の方では好きだとか日常的に言っている気もするが、少なくとも恋人同士の甘い雰囲気の中で言う「好き」ではない。同年代の友人たちが話しているカップルの様子と比べてみても、何か違う。  デートにはほとんど出かけたことがない。匠も響子もカレンダー通りの休みではないし、二人で一緒にいるときは、大抵どちらかの家で食事をしているか、銘々でピアノだのレシピ作りだの自分のことをしている。  誕生日はお互いに祝い合うけれど、特に出かけたりはしない。少し良いワインと食事を作って食べる。言ってみれば日常の延長だ、  デートや誕生日以外で恋人同士の特別な日は他にあるか。  握りしめた響子の手のひらに爪が食い込む。  ——だって、バレンタインは……  女友達が彼氏にしている特別なことを考えてみると、どうしてもバレンタインが頭に浮かぶ。少し不安の混じった、それでも頬を朱に染めて楽しそうな友人たち。どんなチョコレートをあげようか、作るのに失敗しないか、話す様子はきらきらして見えた。  確かに、響子が中学生で匠が高校生の頃には、響子も同級生やピアノの先生、父親に配るために作ったクッキーやブラウニーを、匠にもあげたことはある。  しかしショコラティエを目指すと知った後、匠にチョコレートをあげるなんて、頭によぎったこともない。  ——だってほら、たくちゃんにチョコレートあげるとか、嫌味か罰ゲーム以外のなにものでもなくない? だから今日も代わりにご飯の準備してきたんだし。  そう言い聞かせて夕飯の入った袋をちらと見る。袋の口から覗いたタッパーが目に入ったら、励まそうとした気分がかえって萎んでいった。  ——もっと、手の込んだお洒落なもの作れば良かったかな……  抱えている袋がやたらお粗末でみすぼらしく思えて、手を可能な限り伸ばして遠くへ押しやり、空になった腕でぎゅっと膝を抱えた。目がものを見るのを拒む。膝に頭を押し当て、瞼を閉じて視界を遮断する。  ——ほかに恋人っぽいこと……  ハグや、キスはする。でもそれも匠がフランス留学から帰ってきてからのことだ。  ——たくちゃんからしてみれば、挨拶と大して変わんないのかもしれない……  カチコチと時計の針の音がいやに耳につく。もうすぐ日付も変わってしまう。恋人たちが心ときめかせる特別な一日が、過ぎて行ってしまう。  ——私、妹と変わんないのかな……  きつく瞑った目が熱くなり、喉に息が通りづらい。唇が震えそうになるのを堪えようと、膝を抱く腕に力を込めた。  その時、響子の背中に、玄関先でガチャリと鍵の回る音がした。 à suivre(続く)
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