一行だけの手紙

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一行だけの手紙

ソウル 夏の日の夕暮れ。 西日が容赦なく窓から入り込み、 室温を高めていく。 流れる汗を タオルでぬぐいながら、 チソンは パソコンに向かっていた。 「もうちょっとだから 固まらないでくれよ~。 頑張ってくれ~」 早期卒業のための 論文と卒業制作の 締め切りが迫っていた。 彼の部屋には クーラーさえなかった。 唯一ある扇風機は、 彼ではなく パソコンを冷やすために 回っていた。 ジリジリジリ! 目覚まし時計がけたたましく鳴った。 「やっべ。バイトの時間だ!」 親からの仕送りはなく、 学費と生活費は 奨学金とアルバイトで 賄われていた。 どんなに締め切りが迫っていようと バイトを休むわけにはいかなかった。 「あ~、今日も徹夜だな…。」 ここ数日、 ろくな睡眠はとっていない・・・。 パソコンの電源を切り、 あわただしく出かけようとする チソンの足が ポストの前で止まった。 「ふっ」 今日も 郵便物が何もないことを確かめると、 口を少しゆがめ 苦く笑った。 (いつまで何を期待しているんだ。 まったく…) 想いを振り切るように 自転車にまたがり走って行く・・・。 東京 由紀は、 会社帰りの電車の中で 車内広告に見入っていた。 「トプカプ宮殿の至宝展」    東京都美術館 トプカプ宮殿… 一年前の イスタンブールでの出来事を 思い出していた。 キム・チソン。 私のことを 韓国人だと勘違いして 話しかけてきた韓国人大学生。 誘われて、 彼の案内で ゆったりとした散策の時間を 楽しんだ。 男性と親しく話したりするのは 苦手なのに、 初対面から彼は 違和感を感じさせなかった。 「僕は移り行くものの方が好きだな。 儚いけれど、 そのひとときの美しさを 愛しみたいな・・・」 なんて、大人ぶって言うかと思えば、 私が、 ジュエリーデザインの勉強を していることを知ると 「あの、 宝石が嫌いって訳じゃなく・・・、 あまり縁がないから。 こんな風に宝石やアクセサリーを ちゃんと見るのは初めてだし・・・」 汗をかきながら弁明する彼の顔は、 端正だけど どこか少年の面影を残していた・・・。 不思議な人。 どうしているかしら…。 手帳には、 今でもあの時 別れ際に手渡された、 走り書きの 彼の住所のメモが 大切に挟み込まれている。 このメモを取り出して手紙を書き、 何度破り捨てたことだろう。 意気地のない私。 「あの、 もしよかったら手紙をください。 待っています。 今日はとても楽しかった。 ありがとう…」 メモを押し付けるように渡し、 それだけ言うと、 返事を聞くまいとするかのように 走り去っていった彼… 今でも、 待っていてくれるのかしら? もう一年もたつのに・・・、 遅いわよ・・・ね。 こうやって、 行きつ戻りつ、 一歩を踏み出せないまま いつまでも同じところを ぐるぐる回って 煮え切らない私。 今日言われた先輩の言葉が蘇った。 「あなたのデザインは、 綺麗なんだけど、 なんていうかな…、 小さくまとまってしまっているのよ。 自分の殻を破らなきゃ。 いつまでも事務部門にいる あなたじゃないでしょ。」 そう、 私は、ジュエリーデザイナーに なりたくて 大学の芸術学部を卒業して 宝飾製作会社に入社した。 しかし、 デザイン部門には配属されず 経理事務をしながら 勉強を続けていたのだ。 自分の殻を破る・・・ あの時も、 何かきっかけを掴みたくて イスタンブールへ行ったのだった。 もう一度、 あの宝石たちに会いに行こう。 自分で自分の背中を押すように、 プレイガイドへ行き チケットを2枚買った。 「あの時の宝石たちが 日本にやってきます。 会いに来て下さいませんか。」 携帯さえ 持ってない事 言えなくて      かすかな望 繋いでるメモ あの時の 二人の時間 僕はまだ    昨日のように 抱きしめたまま 祈るよに 文認めて 投函す       一行だけの 短い手紙 
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