キム ・チソン

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キム ・チソン

「つっかれた…」 バイト先では いつも立ちっぱなしだ。 小さな飲食店の 店主も女将もいい人たちだったが、 皿洗いから野菜の下ごしらえ等々、 とにかく裏方の仕事は チソン一人に任されていたので、 いつでもめちゃくちゃ忙しかった。 店主は料理を作り、 女将は接客で手一杯。 小さな店は いつも客であふれていたから。 週に一日しか休みのない 飲食店のバイトはきつかったが、 給料もそこそこ良くて、 何より賄いが振舞われることが 魅力だった。 仕事が終わると 店主と女将と三人で 遅い夕食をとる。 女将は、 息子のようにかわいがってくれ、 次の日の朝食と昼食の分まで 食べ物を持たせてくれることも たびたびだった。 おかげで、 アパート (とも呼べないような ぼろ下宿だったが) に帰れば勉強に集中できた。 自転車置き場に自転車を止め、 いつものようにポストを確認する。 どうせ、 しょうもないダイレクトメールだけだ とわかっているが…。 一通づつ 事務的に差出人の名前(会社名)を 確認してゆく。 (請求書はない、か・・・ 今日も全部ゴミ箱行き・・・) 彼にとって唯一の楽しみは、 たまさか送られてくる 故郷にいる母と弟からの手紙だ。 それだって内容はいつも同じだ。 元気でいますか。 ちゃんと食べてますか。 風邪を引かないように。 あなたは気管支が弱いから…。 次に帰ってくるのを待ってます。 弟がいつもあなたに 会いたがってます。 わかってる。わかってるよ…。 いつもいつも同じ手紙でも、 たまにしか来ない手紙でも、 チソンは嬉しかった。 待ち遠しく、 毎日ポストを確認した。 父に早く死なれ、 家は貧しかった。 母が市場で野菜を売って 生計を立てていた。 早く働いて、 母と弟を楽にしてやりたい。 チソンの願いはそれだけだった。 そのために 彼は懸命に学業に取り組み、 一年早く高校を卒業すると 奨学金も勝ち取り ソウルの大学に進学した。 チソンは、 本来歴史や詩を愛する 文学青年だったが、 それでは食べていけないので 建築学を専攻した。 3年で早期卒業し、 大手の建築会社に就職する。 それが彼の目標だ。    *** 郵便物を確かめる手が止まった…。 最後の一通が、 印刷ではなく手書きの封書だった。 見慣れた母の字ではない。 ハングルを あまり書きなれていないような、 小学生のような字だった。 チソンの胸が 早鐘を打つように高鳴った。 まさか… 期待と恐れがあいまって、 チソンはポストの前で立ち尽くした。 たどたどしいハングルで書かれた 自分の名前を しばらくの間見詰めていた。 そっと祈る気持ちで裏返すと、 田中由紀  と、漢字で書かれた 差出人の名前があった。 あきらめて なお待ち焦がれし    文来る     その人のごとく 胸にかき抱く
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