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鍵を開けるのに こんな時間がかかったか? 靴を脱ぐのももどかしく、 部屋に入るなり引き出しを探った。 はさみ… 邪魔なダイレクトメールを ゴミ箱に放り込む。 由紀の手紙を テーブルに大事そうに置いて、 両の手をズボンでぬぐった。 慎重にはさみを入れる。 傷を付けずに、 なるたけ綺麗に封を開けたかった。 封筒の中には、 丁寧に折りたたまれた 便箋とチケットが入っていた。 トプカプ…、 カタカナは読めた。 美術展のチケット? あの時見た美術品の展示だろうか。 便箋を開く… 几帳面に、慎重に書かれた、 一行のハングル文字・・・ 『…会いに来てくださいますか?』 一行だけで分かった。 それで充分だった。 一年の間に、 何度書いては出さずに 思い直し尚したのだろう。 ひらがなで、いいのに… ゆきさんの、ばか… 文字が滲んでぼやけた。 それにしても… 会いになんか、行けるわけ… ないじゃないか。 お金はもちろんないし、 時間もなかった。 うそ…ついたむくい、 だな…。 今更後悔しても、 唇を噛むしかなかった。 チソンは嘘が嫌いだった。 貧しくとも、 それを恥じて隠すつもりもなかった。 実際、 彼の端正な容貌を見て 近づいて来る女子学生たちが、 彼が貧しく しかも勉強にしか興味のない 本の虫であることを知ると 離れていくこともしばしばだったが、 気にしないことにしていた。 女子だけではなく、 男子学生さえ、 誘っても サークルにも加入せず コンパにも来ないチソンを 次第に敬遠するようになっていった。 チソンの学生生活は、 孤独だったといえる。 ある事件をきっかけに 親しくなった二人を除いては、 彼の友は図書館の本だけだった。 一人は、 一学年上のパク・ソジュン といった。 彼は、 女性かとも思える程の 華やかな容姿を持った学生だったが、 (事実、 彼の周りには いつも女子学生が取り巻いていた) その外見とは裏腹に、 繊細な心を持った 情に厚い人物だった。 彼は人懐こく、 たまに会うと駆け寄って チソンに熱烈なキスを浴びせるのが 珠に傷。 それは、 ソジュンなりの愛情表現であることは 理解していたが、 はっきり言って照れくさかった。 兄さんというのは、 こういう人なのかと 兄のいないチソンにとっては 嬉しく頼りがいのある人だった。 彼にならば、 なんでも相談できた。 もう一人は、 同学年のオ・ソンジュ。 愛嬌がある自由人で、 チソンと 殊更親しくなろうとする ふうでもないのに、 他の人間が離れて行っても 変わらずに接してくれた。 何気なく、 周りの人間たちが チソンを傷つけていく時、 気にしない、 平気だと言い聞かせていても やっぱり凹んでしまう。 そんな時に限って、 いつもソンジュは そばにいて笑わせてくれた。 いつも三人で つるんでいる訳ではなかったが、 たまさか一緒にいて 談笑していたりすると、 容貌に優れた三人組は自然、 人々の視線を集めた。 誰が言うともなく、 “建築科の花の三人組” と呼ばれるようになった。 チソンの理想の女性は、 母だった。 物静かで、穏やかで、 声を荒らげることなく それでいて芯の強い人。 いつか、母のような人と 巡り逢いたいと、 夢見ていた。 有り体に言えば、 マザコンだ。 彼の周りにいる女性たちに 彼は絶望していた。 だから… あの日… 静かに、 まるで塑像のように 身じろぎもせず佇んでいる人に 惹きつけられた。 その人の周りには、 違った空気が取り巻いているように 思えた。 そこだけ 時間が止まっているかのようだった。 カメラを向けるでもなく、 ただじっと 青いタイルの壁を見つめていた。 やがて、 彼女が庭園へと歩み始めた時、 吸い寄せられるかのように 付いていってしまった。 そのまま、 門へと行ってしまうように思え、 気がついたときには 声をかけていた。 なぜ韓国語で話しかけたのだろう? 東洋系の顔をしていたから? 日本人かもしれないとは 思わなかった。 一度だけの日本旅行の時、 チソンはがっかりした。 日本の女性は奥ゆかしく、 恥じらいがあって…と 聞いていたのに、 そんなのは過去のことなのだと 気づいた。 東京は仕方がないと思った。 都会では、 女性もきらびやかに着飾り 賑やかに過ごしたいのだろうと。 しかし、 京都や奈良や さらに地方の都市に行っても 変わらなかった。 彼女たちは 史跡や建築物の見学はそっちのけで わやわやと友達同士写真を撮り合い、 美しい風景さえ目に映らぬように 土産物売り場での 買物に夢中だった。 彼の、 少年のような女性への 淡い憧れの気持ちは その時パチンとはじけて、 砕け散ってしまった。 だから、まさか 彼女が日本人とは思わなかった。 何も考えずに話しかけていた。 母に似た美しい人は、 当然韓国人だというように。 突然呼び止められ、 話しかけられた彼女は、 困惑していた。 あの、韓国の方ですか? 私…、 韓国語はわからなくて… しまった… とにかく、 なんでもいいから 彼女を引き止めたかった。 嘘を言うつもりは、なかった。 でも、無意識に、 彼女にだけは嫌われたくないと 思っていたのかもしれない。 趣味は、 海外のいろいろな建築物を 見てまわることです。  なんて… 偽りの 姿を示し 気を惹かん       嘘が巡って 嘘を重ねる
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