億日紅

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なぜ。 桜を愛してくれないのですか。 開き始めた桜の下で、彼女は寂しげに笑う。 窓からの灯りに照らされ。 花びらの影が彼女の顔に落ちる。 桜は。 夜風にその十数本の枝を揺らし、手招きする。 影が彼女の顔を這う。 私の足は、踏み出すことができず。 代わりに口答えする。 前にも言ったでしょう。 散る花の美しさなど愛でたくないのですよ。 失われることを賛美などせず、忌避して遠ざけたいのです。 命を。 弄びたくなどないのです。 声は半音ずつ上がり下がりしながら夜風の間をわたり、彼女の鼓膜まではたどり着いたらしい。 生物学者の彼女は、くすりと笑って。 だからあなたは、北館にいるのですね。 人類学者の私は、顔をしかめる。 薄紅は、風に吹かれてその腕を揺らす。 巨大生物を思わせる動き。 あなたがそう言うから、この桜を作ったのですよ。 見上げる。 花開く怪物。 笑みを照らす光と影。 それこそ、命を弄んでいるではないですか。 滑らかな幹に触れる。 億日紅と名付けられた桜。 一億日咲き続けるという。 永遠の命。 不老不死。 決して死ぬことのない生命なのだと知ったら。 それこそ死んでいるのと同義ではないか。 だからあなたが嫌いなのだ。 儚く散る桜は嫌いだ。 散ることのない桜は、もっと嫌いだ。
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