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≪一日目≫
いつもは大好きなカレーなのだが、今日はまったく味がしなかった。
きっと一緒にご飯を食べているお父さんもお母さんも同じだろう。
先ほどからお父さんとお母さんは真剣な表情で話をしていた。
会社の健康診断で引っかかって……
大きな病院で精密検査……
悪性腫瘍の可能性が高い……
そんな言葉が、私の耳に入っては通り過ぎていった。
信じられなかった。あんなに元気そうだったお父さんが——。
ただ、思い返してみれば、このところ体調が優れないからと、休日もベッドで休んでいることが多かった。
病気になっていることなど知らず、そんなお父さんを無理やり起して遊園地に連れて行ってもらったことを、私は今さら後悔した。
お父さんはどうなってしまうのだろうか。そんなことを考えると、自然と涙が溢れてきた。
そして私の涙が一粒、カレーに落ちた。
その私の涙でできたルーの波紋を避けるように、カレーの中をすいすいと泳ぐ魚の姿があった。
「え?」
きっと目の錯覚に違いない。私はよくカレーを観察した。
熱帯魚のようだった。姿が見えるのは水上(正確にはカレー上)近くを泳ぐときだけだったけど、ジャガイモや人参、牛肉を避けながらルーの中を泳ぐ姿は、小型の熱帯魚で間違いなさそうだった。
最近の熱帯魚は人間が交配を繰り返して品種改良されていると聞いたことがあった。中にはカレーの中を泳ぐ種類の熱帯魚がいたとしても不思議ではなかった。
ただ、一つだけ問題があった。
私は絶対にカレーと一緒に生の熱帯魚など食べたくはなかった。
熱帯魚を眺めるのは好きだが、食べるときっと病気になってしまうだろう。
ちょうどいいタイミングで、お父さんは気分が悪いとトイレに立ち、お母さんも付き添っていった。
「ほら、元いた場所にお帰り」
お父さんとお母さんがいない隙に、私はスプーンで熱帯魚をすくうと、まだカレーのルーがたっぷり入った鍋の中に熱帯魚を戻しておいた。
熱くないのだろうか。熱帯魚はすいすいと気持ちよさそうに粘度の高いカレーの中を泳いでいた。
カレーは少し魚臭い気がしたが、泣いてしまったせいもありお腹が空いていたので、全部食べてしまった。
夜中、こっそり鍋の蓋を開けると、熱帯魚はまだそこにいて茶色いルーの中を気持ちよさそうに揺蕩っていた。
≪二日目≫
「お母さーん、今日の晩御飯なにー?」
「今日はカレーうどんよ」
「ほう?」
その瞬間、私は昨晩、カレーの中を泳いでいた生物のことを思い出した。
カレーが入った鍋はすでにふつふつと煮立っているように見えた。
さすがに品種改良された熱帯魚であっても、沸点までは耐えきれまい。南無……。
そう思っていたが、私の目の前に出されたカレーうどんの中で、熱帯魚は元気そうに泳いでいた。
お父さんは仕事の引き継ぎで遅くなるということで、先に私とお母さんで食べることになった。
箸で捕まえてこっそり鍋に戻してやろうと、熱帯魚を相手に悪戦苦闘していたときだった。
「お父さんの病気、ショックだったと思うけど、あなた大丈夫?」
母さんは私に尋ねた。
「大丈夫だよ。きっとすぐ治って戻ってくるし」
私の箸は熱帯魚をお皿の端まで追いつめていた。熱帯魚は逃げ道を探して右往左往している。
「これからお母さんは病院に通うことが多くなると思うから、あなたも一人になることが多くなると思うけど、本当に大丈夫?」
「ダイジョーブダイジョーブ、たぶんなんとかなるし……」
私の箸が熱帯魚の尻尾を捕まえた、その瞬間だった。
「真剣に考えてるの?」
バシン! とお母さんが机を叩くと、熱帯魚は私の箸をすり抜けて水中(カレー中)に潜っていってしまった。
「ちょっとなにするのよ!」
「なにするのよ、じゃないでしょう。突然なことでショックなのは分かるけど、あなたも家族の一員として、一緒に考えてもらわないと困るのよ」
お母さんは感情的になって言うけど、こっちはそれどころではないのだ。私のお腹が熱帯魚に食い破られてもいいというのか。
「今日のあなた、ちょっと変よ」
どこが変なものか。お母さんの言葉に腹を立て、私は「もうそれいらないから」、と言い残すと席を立ち、自室に向かった。
ベッドに倒れ込んでからも、私はカレーの中にいる熱帯魚のことばかり気になった。
お母さんは私のカレーうどんを流しに捨ててしまっただろうか。そうなれば、さすがにあの熱帯魚も死んでしまったに違いない。
いくらカレーの中で生きられるように品種改良を受けたとはいえ、三角コーナーに落とされて生き延びることのできる熱帯魚は存在すまい。南無。
夜中に鍋を覗いてみると、何事もなかったかのように熱帯魚が泳いでいた。
箸の付けられていないカレーうどんを見てもったいないと思ったお母さんが、カレー部分だけすくって鍋に戻したのだろう。
「あんたは気楽でいいな」
菜箸で二三度突つくと、熱帯魚は鍋の底に逃げたまま浮かんでこなくなった。
≪最終日≫
食卓には私とお母さんとお父さんの三人が座っていた。
三人の目の前にはチーズカレードリアが置かれていた。
鍋はすでに空っぽだった。三日にして、ようやく私たちは最後のカレー料理を食べ終えることができたのだった。
熱帯魚の姿は、厚いチーズに阻まれてここから伺い知ることはできなかった。
ただ、三つのお皿のどこかに熱帯魚はいるはずだった。あの熱帯魚が、少々オーブンで熱されたくらいで死んでしまうとは思えなかった。
「明日から、入院することに決まったから」
カレードリアを少し冷ましてから口に運ぶと、お父さんは言った。
私はなにも言うことができなかった。ただ私は、お父さんの口の中にいるかもしれない熱帯魚のことだけに頭を集中した。
「いつ帰れるか分からないけど、いい子で待っててくれよな」
お父さんはそう言って笑った。
調子が悪いならやめた方がいいと言われても、次はいつ食べられるか分からないからとカレーを熱望したお父さん。
そのお父さんは、スプーンでカレードリアをすくうと、大きく開けた口へと運んだ。そして私は、確かにそのスプーンの上を泳ぐ小さな熱帯魚を見つけたのだった。
「待って!」
とっさに出た私の声に、お父さんは手を止め、驚いた表情で私を見つめた。
「どうした、急に大きな声を出して」
——そのカレー食べないで。
——カレーの中を熱帯魚が泳いでるよ。
——最近の品種改良の技術って凄いよね。
いや、私が本当に言いたいのは、そんな言葉じゃなかった。私はもう現実から目を逸らしたくなかった。
「お父さん、行かないで。病院に行ったらもう帰ってこないんでしょ。ずっと家にいてよ!」
自分でも無茶苦茶なことを言っていると分かっていた。それでも、私は自分の言葉を止めることができなかった。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、ガンで入院してから帰ってこなかった。お父さんだってそうなっちゃうかもしれない。だったら行かないで、ずっと家にいてよ。お願いだから……」
私の言葉を聞き、お父さんとお母さんは困ったように顔を見合わせた。
私はカレードリアに涙が落ちるのも構わず、わんわんと声をあげて泣いた。
「お父さんは絶対に帰ってくる。約束するよ。お父さんがこれまで約束破ったことあるかい?」
「……守ったことの方が少ない」
私が泣きながら言うと、お父さんとお母さんも目に涙を浮かべながらくすくすと笑った。
「本当に帰ってくる?」
「絶対に帰るよ」
「約束できる?」
「ああ」
私は立ち上がり、お父さんにぎゅっと抱き着いた。お父さんはがっしりとして、病気なんかに絶対に負けないように思えた。
泣くことに疲れた私たちは、カレードリアを綺麗に平らげてしまった。
私が熱帯魚の存在を思い出したのは、翌日、お父さんのが入院する病院へと向かう車の中だった。
≪一日目≫
「ただいまー」
お父さんが約束を果たして帰ってきた。予定していた入院期間よりもずっと早く。
「不思議なことってあるんだな」
お父さんは穏やかな表情で言った。
悪性の腫瘍が見つかり、入院してさらに詳しい検査を受けることになったお父さんだったが、いざ検査をしたところ、あったはずの腫瘍が綺麗に消えていたのだという。
医者は「こんなことあり得ない」と繰り返していたというけど、腫瘍のない患者を置いておくわけにもいかず、こうして家に帰されたという訳だった。
ただ、私にだけは、医者でさえあり得ないと言う、腫瘍が消えた理由に気づいていた。
お父さんが入院してから、私は図書館で熱帯魚図鑑を借りて例の熱帯魚の名前を調べてみた。すると、そこにはこう記されていた。
ドクターフィッシュ。人間の皮膚——特に皮膚病などで大量の角質が形成される箇所を好んで食べる魚である、と。
カレーの中を泳げるように品種改良を受けたドクターフィッシュは、先日、カレードリアの中を泳いでいたところをお父さんによって食べられ、お父さんの胃の中に入り込んでしまった。
だが、このドクターフィッシュが人間の胃の中で生きられるように品種改良を受けていないと、誰が言いきれるだろうか。
ゴキブリ並みの生命力を持ったドクターフィッシュは、お父さんの胃の中を泳ぐうちに見つけたのだろう。彼の恰好のエサになる、お父さんの胃にできた腫瘍を——。
「今日の晩御飯は私が作ったからね」
私が言うと、お父さんは玄関で嬉しそうに小躍りした。
あのとき、三日目でカレー料理は最後になったけど、また何度だって始められるのだ。この家には三人の家族が揃っているのだから。
そして、このカレーはお父さんの快気祝いだけではなかった。お父さんの命を華麗に救ってくれた、お父さんのお腹にまでいるであろうドクターフィッシュへのお礼でもあった。
お父さんが食べたカレーの中で泳ぐのはちょっとキモいかもしれないけど、今日から少なくとも三日間は、美味しいカレーの中で悠々と泳いでください。
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