花霞の向こう。

1/1
前へ
/1ページ
次へ

花霞の向こう。

 桜の花は好きじゃない。  あの儚く淡い色の花を見るにつけ思い出すのは、花霞の向こうに消えたあの人の後ろ姿と、うっすらと血の滲んだ膝小僧と手の平の痛み。 「桜は嫌い。散ったらどこにでも張り付いて汚いもの」  あの人の言葉は、消えることなく脳に刻まれたままだ───。 「ぶえっくしゅ」  この季節はとかく憂鬱になるけれど、その1番の要因はクシャミ鼻水鼻づまりと目の痒み。そう。花粉症だ。最近は以前よりいい薬が出て随分と楽にはなったけれど、それでも風の強い天気の日などは酷い症状に見舞われる。   「わ、目、真っ赤ですよ」 「いやあ、花粉ひどくて、目も鼻ももう……」 「あんまり擦っちゃダメですよー」 「わかってんだけどねえ」 「今日、風強いですもんねえ。さっき、お届けの帰りに川側通ったんですけど、桜吹雪めっちゃ綺麗でしたよ」  ──桜は散った後が汚いから嫌い──    今となってはだから何だという程度でしかないけれど、それでも、そんな職場でのささいな会話にすらひっかかる心のささくれとなってなっているのだと、折に触れ気付かされる。 「小学校の入学式いつだっけ? それまで保てばいいのにねえ」 「いやあ、ほんとにねえ。旦那、なんか気合い入っちゃって、こないだカメラ買ったんですよ。安くもないから、私なんかはスマホでいいって思うんですけどね。でもまあこうなったらご入学の看板? と桜とで一緒に撮りたいですよねー」  一回り年下のパートタイマーさんには今年小学生にあがる娘がおり、夫婦で卒園式も入学式も参加し、動画と写真を撮影するという話を聞いて、スマホでの撮影すらそこそこだった数日前の我が子の卒業式を思い返した。  繁忙期の為に丸一日の休みが取れず、ご卒業の式典看板と並んで写真を撮る親子を横目に慌てて帰ったのだが、実際高校生にもなれば息子も友達との別れを惜しむのに忙しそうで、親との記念撮影なんて、それに水を差すようなものだろう。  まあ丸一日休めた入学式の時も記念撮影などしていなかったから、根本的な何かが希薄なのかもしれないのだけれど。  私自身の過去の写真も少なく、アルバムに残っているのは保育園や学校で手に入れたであろうものばかりだったから、写真の少なかった環境というものに精神医学的な見地からアプローチすれば、ドライな卒業式と何らかの因果関係があったりするのかも知れない。 「ちょっとだけ行ってくるから」 「ママどこ行くの?」 「お用事。怖いワンワンがいるからアンタは家で待ってて。すぐ帰ってくるから」  ちょっとも、すぐも嘘。  大嫌いな化粧品の匂いがするときは、ブラウン管のテレビが砂嵐になっても帰ってはこない。  空が白む頃にやっと帰ってきては、まるで別の人格に乗っ取られてしまったように、酒臭い息を吐いて絡んでくるのだ。    ときには抱き締められ、宝物だと頬擦りされ。  ときには、アンタなんか産まなきゃよかったと髪を引っ張られ。  幼い心を揺さぶられ、嬲られる。  それでも、自分にとって唯一の大人だった。  大好きな、唯一だった。    けれど。 「いい子にしてるのよ。じゃあね」 「ママ? どこ行くの? ママぁ?」  普段と違う装いと大きめのカバン。  大嫌いな化粧品の匂い。  お留守番とその匂いはイコールに結びついていたけれど、その日がいつもと違っていることに四歳児とはいえ察する何かがあったのだろう。慌てて追いかけた目の前で締められたタクシーのドア。それが閉まる前に聞こえた「早く閉めて!」という強い口調の記憶は未だに耳に残っている。 「ママーママー!!」  走り出したタクシーの後部座席の窓から見える母の後ろ姿。泣きながら裸足のまま追いかけて、何度も呼びかけたあの時の、たまらない不安も張り裂けそうな胸の悲しみも、未だに忘れられないでいる。  信号で止まったタクシーに追いつけるんじゃないかと必死に駆けて、そして、転んでしまった。 「あーん、ママーママー!!」  大声で泣いたのは。  立ち上がらなかったのは。  痛かったからじゃない。  タクシーから降りて、駆け寄ってくれるんじゃないかと思ったからだ。 「ママーーー!!」  でも結局、あの人は桜並木の向こうに行ってしまった。    その後の記憶は途切れてしまっているけれど、転んだ先、アスファルトに貼りついた桜の花弁は鮮明に覚えている。  古くなってでこぼこになった灰色のアスファルトに、潰された部分が少し透けたようになって貼りついたピンクがかった白い花弁。  桜は散った後が汚いから嫌い。  子供は泣いて鬱陶しいから嫌い────。  ごめんなさいママ!  もう泣かないから捨てないで!!  ごめんなさい!!!  ごめんなさい!!!  ママァァ    ちっぽけな世界の、総ての存在だった。 「じゃ、ここで。ありがとう!」 「あ、これ、これ。手土産手土産!!」 「あー、そーだそーだ。こっちがフロアリーダーだっけ?」 「逆、逆! こっち。一個の方でしょ、こっちのが両隣の人用で、こっちが予備。なんかのワイロ用。しっかりしてよもうー」 「ワイロ用ね。ワイロ用。じゃね。ありがと」  頭ひとつ大きくなった息子からハグひとつ。  西洋的な要素は何ひとつない我が家だが、なぜか取り入れられている別れの挨拶。    小さかった我が子からの。    別れの。  挨拶。 「おやおやお母様、目が赤いよー」 「花粉症なもんで」 「ははは。じゃあ、夏にね!」 「ちゃんと野菜も食べてよ!」 「はーい! じゃねー! とりあえず明日モーニングコールよろー」  泣いて鬱陶しかった頃が懐かしいほどの清々しさで背を向け歩き出す姿に、ピンポイントで花粉症の症状が出始める。それはもう目と鼻を重点的に。 「ううぅー」  桜の花は、好きじゃない。  花霞の向こうに、世界で一番大事な人を隠してしまうから。    
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加