マスターの意外な特技

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マスターの意外な特技

大丈夫だと言った舌の根も乾かぬうちに、腰を痛めた。 それも運の悪い事に、あの女癖の悪い松山の前で。 ボーナスが出たであろうその週明け。 どの配達先もいつもより納品が多くて、サクサク回りたいと、ちょっと無理して多めに持ったのが悪かった。 広げたオリコンに、それでもここは少なめだと持ち上げたら腰に違和感があった。 「まいどー」 松山は、カウンターの内側でグラスを磨いていた。 「ご苦労さま」 板張りの床を傷付けない様にと、ちょっと踏ん張って瓶のビールを下ろしたのが不味かった。 「っ、あ…」 キリキリっと腰に電気が走った。 「……っ」 そうっと身体を持ち上げて固まる。 真っ直ぐ伸ばせない。 これは、やってしまった。 「……大丈夫ですか」 いつもなら伝票を置いてすぐに背中を向ける淳が中々動かない事に手を止めた松山がこちらを向いた。 「大丈夫、です」 伝票を腰に響かない様にそっと、カウンターに滑らせてみたものの。 痛くてちょっと泣きそうだ。 松山がカウンターを周りゆっくり近づいてくる。 何か、いい香りがする。 「ああ、腰…やりましたか」 淳の後ろに回ったマスターが、何故か淳の背中に触れた。 「え、」 「そこ、奥のソファーまで歩けますか」 落ち着いた、低い声によこしまな色は無く。 心配してくれているのが分かった。 うん、この人にまとわりついていたのは、淳とはかけ離れたお色気たっぷりな美人だった。 「大丈夫です……すみません」 とは言え、ソファーで休ませてもらうのは気が引ける。 業務的な挨拶しかして来なかったのだ。 這ってでもここを出て、隣の昂大の店で休ませてもらおう。 「いいから」 何がいいんだろうと思ったけれど、マスターに腕を取られてそろそろと歩いた。 革張りのソファーにうつ伏せになる様に言われた。 見た目より硬いそこにそっと身体を横たえた。 「前職が、整体師なんで」 と、松山は前置いて淳の背中に触れた。 「……あぁ、この辺」 と言って、松山がく、と抑えた所に電気が走った。 「いたたっ」 「……蓄積してる」 そう言った松山は、淳の背中を何ヶ所か撫ぜるように押した。 そんなに力は感じなかった。 そして最後に肩を持って、く、と一度淳の半身を引き上げる様に捻った。 「はい、立ってみて」 へ?とは思ったけれど、言われた通りに立ち上がって驚いた。 「え……」 痛くない。 魔法か? 「……どう?」 「痛くありません…魔法ですか?」 松山の整った顔が、ふ、と笑った。 「整体だよ…時任さん、でいいのかな」 「あ、はい、時任です」 時任酒店という前掛けはしているし、伝票にその記載はあるけれど名乗った事はなかった。 「うん、時任さん背中をストレッチしてから寝る様にした方がいいね」 「はい、ありがとうございました」 そうお礼を言うと、いいえ、と松山は答え。 カウンターの内側に歩き出した。 女好きのマスターの特技に助けられた淳は、その夜から毎日ストレッチをする様になったのだった。
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