冬の匂い

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夕方仕事を終えると、着替えもせずに松山の部屋を目指した。 配達先をまわりながら気が気じゃなかった。 まだ触れられてもいなかったのに。 松山の反応は明らかに過剰だった。 嫌悪と恐怖と、焦りと。 そんなになる程、父親との間に何があるのだろう。 とにかく、一秒でも早く松山の隣に居たかった。 一人にするのが嫌だった。 「いらっしゃい」 玄関を開けてくれた松山は、やっぱり少し疲れた目をしていた。 それでも微笑んで、淳の手を引いてリビングまで歩いてくれる。 松山も、きっと淳が昼間の事を気にして会いに来たのだと分かっているはずで。 「……おいで」 先にソファーに腰を下ろして、松山が腕を伸ばした。 その腕に導かれるまま、膝の上に横抱きにされる。 松山はいつも隣に座るけれど、こんなふうに膝に乗せる事は少ない。 もしかしたら顔を見られたくないのかも知れないと思った。 淳は松山の右肩に左耳を預けて目を閉じた。 開いた足の間にお尻を収めて、ふう、と安堵のため息をついてみせる。 しんとした部屋の中で、松山の呼吸の速度と大好きな香りを吸い込む。 聞き出すことが、正解かも分からなかった。 全てを知る事が当たり前ではない。 全てを話したいと思うかも分からない。 心配で、ひとりにしたくなくて。 自分の気持ちだけでここに来てしまった。 松山は一人で居たかったかもしれないのに。 「柊司さん」 「……ん?」 松山の肩口に頬を擦り寄せた。 「次の休みは、どうしましょうか」 押しかけて、話せと言う雰囲気を作ってしまったと…今になって気がついた。 「そうだな、どこか出掛ける?」 「どこに行きますか?遠出?」 「ドライブ…、買い物、映画もいいね」 それでも、あの事に触れずにいる事が正解ではないのかもとも思う。 松山は優しい。 けれど思えば深い事を無遠慮に聞き出そうとした事は無かった。 昂大とその後、どんな関係でいるのかを聞かれたことが無い。 毎日、昂大と顔を合わせているけれど。 昂大が何か言っていないのかとか、距離感は変わったのかとか。 恋人として、逆なら少し気にしてしまうと思う。 それを訊かないのは、もしかしたら松山自身がお互いを深くさらけ出しながら、何でもオープンにする事を望まない人なのかもしれない。 大好きだからこそ、大切だからこそ。 二人でいる事が難しい時間だった。 松山が、どうすれば楽になるのか。 まだ付き合いの短い自分に分からないことが、歯痒かった。
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