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穏やかな毎日
夏の暑い日差しに目を細めて、淳はバイクのハンドルを握る。
三輪のその荷台には、ガッチリとビールケースが固定され。
多少の急ハンドルでも中身は無事だ。
繁華街の中心とまではいかないが、そこそこ人通りのある飲み屋街が、淳の配達先だ。
淳の両親が経営する酒屋は、小さいながらも古くからの顧客には重宝されている。
配達の本数に文句も言わず、日に何度も届けてくれるといつも喜ばれているのだ。
元々は父親の聡が配達を担い、母親の景子が店番をしていたのだが。
三ヶ月ほど前、元々痛めていた腰を完璧にやってしまった聡に変わり、娘の淳がその業務を引き継いだ。
短大を卒業した後、淳は大手のスーパーに入社し本社の総務に務めていた。
やっちゃったのよー、と景子からの連絡を受けた翌日にはサクッと辞表を出した。
身体を動かして働く方が性に合うし、何より昔から付き合いのあるこの街の人達に関わる毎日が楽しい。
「まいどー!」
「淳ちゃんありがとう、外暑いでしょ?」
「今日はまだマシですよー、あ、ありがとうこざいます」
開店前のスナックのママが、スッピンに目の痛くなる様なカラフルなドレスを着ている違和感にも慣れてきた。
冷たい缶のお茶を手渡され頭を下げた淳は、今日は五本だけの瓶ビールを手渡す。
「少ないのにごめんねぇ、昨日はそんなにはけなかったのよぉ」
「いえ、ご贔屓にして頂いていつもありがとうこざいます!」
バイクの足元に積んだ折りたたみのコンテナさえ要らない量だけれど。
毎日必ず注文をくれるお得意様に頭を下げて、次の配達先へ急ぐ。
次の配達先はビールではなく、ジンとウォッカ。
スナックではなくBARだ。
実を言うと、淳はこの配達先だけは苦手だった。
淳は大学入学を機に一人暮らしを始めその間に新規の顧客も増えていたので、初めて顔を合わせる店主も何人か居たのだが。
そのBAR、『unnecessary』は何度配達しても慣れなかった。
どちらかと言えば、古き良き時代の味のあるスナックや居酒屋が多いこの界隈に、新規参入の店は数える程だ。
その中のひとつであるその店の外観は、シンプルだがオシャレで。
少しくすんだ色味におさえた板張りの外装と、黒いドアだけの、隠れ家的な店舗だ。
そう主張しているサイズでもないシルバーのプレートに店の名前があるだけで。
通りから中が見える窓も無い。
「……まいどー時任酒店でーす」
中もカウンターに、二人がけの丸いテーブルとスツールが品良く置かれた空間だけ。
スナックみたいにカラオケなんて無いし、照明だって夜になればかなりムーディだろうと思う。
別にその空間がどうと言う事も無い。
淳だって年頃の女だ。
デートとなれば、スナックよりこんなオシャレなBARがいい。
問題は店主なのだ。
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