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 兄の部屋は蒸し暑く、もう何年も部屋の主がいないことが分かるホコリの量だった。窓から入る光はカーテンによって遮られ、昼だというのに薄暗い。虫一匹の気配さえしない。本当に時が止まっているのではないかと錯覚するほど静かだ。兄が死んだことで、この部屋自体も死んでしまったのかもしれない。  連絡も入れずに実家に帰ったのに、母親は「おかえり」などと呑気に言った。僕が、親友の言うところの封印を解きに来たと知っているようだった。 「兄さん、入るよ」  いつもしていたように声をかけ、足を踏み入れる。裸足だった足の裏にホコリがつく。僕は迷わず部屋の手前に置かれていた勉強机へ向かった。  木製の机の上は床と同じ状況で、掃除がされていないことが分かる。勝手に机に触れることを心の中で謝り、引きだしを開ける。彼が使っていた文房具の中に紛れて二つの封筒があった。真っ白いそれに右上がりの字でそれぞれ、家族へ、友達へと大きく書かれている。急に、肩にかけた鞄が重く感じられた。  お兄さんの思い出の封印を、解くんだよ。  親友の声がする。そうだ、僕はこれを読みに来た。これと、僕に宛てられた手紙を。  封筒を手に取り、引きだしを閉める。部屋の奥のベッドに、最期に見た兄と同じ格好で寝転んだ。兄はどうして、あの格好で死んだのだろう。これから死ぬくせに、どうしてこれから生まれる胎児のように丸まって死んだのだろう。  家族へと書かれた封筒を開き、便箋を出す。紙いっぱいに丁寧な兄の字が並んでいた。深呼吸をして、読み始める。  兄の遺書を読むのは、思ったよりも苦しくなかった。兄の文はあっけらかんとした口調であったし、ほとんどが両親に向けられた言葉だったからだ。途中、僕の体調を気遣う話もあったが、それだけだった。死んでまで僕の体調を心配するなんて、馬鹿らしい。兄の嫌いなところでもあり、好きなところでもある。  僕は丸まったまま、鞄から自分宛ての手紙を出した。一人暮らしをしている部屋の机の奥に仕舞っていた。これは、兄が、家族とは別に僕に宛てた手紙だ。両親には伝えなかった言葉だ。そう思うと手が震える。さっきより緊張する。一度も開けられていない封筒を開けるのにてこずったが、やっとのことで便箋を取り出し、開き――息が止まった。  そこには、ただ一行しか書かれていなかった。自殺した理由なんかじゃない。兄がわざわざ僕だけに宛てた手紙。両親には伝えなかった言葉だ。僕だけに伝えたかった言葉だ。  ああ、と息を吐き出す。涙がぼろぼろと落ち、僕は危うく手紙を濡らしそうになる。ああ。もう一度息を吐き出して、僕は何度もその文を読み返す。  ――お前が俺を想うくらい、お前のこと、好きだよ。今も。  僕は、兄が嫌いだった。とても、兄が嫌いだった。双子なのに僕らは正反対で、兄はいつも自分の前を歩いていた。完璧な兄と凡人の弟。真っすぐな彼とひねくれた僕。対等ではないと思っていた。  本当は、対等になりたかった。  だから嫌いだった。兄も、それ以上に、兄と対等であれない自分も。だけど、兄は、ずっと。ずっと、僕らはお互いを愛し合っていたのかもしれない。家族とか、双子とか、そういうのを越えて、だ。  気付いたら僕は夢を見ていた。兄の夢だ。兄と僕が、兄の死んだ庭先に座って花をいじっている。晴天だ。日差しは強く、兄の白い肌はすぐに赤くなってしまいそうである。 「なあ」 「何?」  隣に座っていた兄が立ち上がって、僕の向かいに立った。兄の影のおかげで、僕は日差しから逃れる。顔をあげて兄の次の言葉を待つが、兄の表情は逆光で読めない。仕方なく、僕は花を見る。 「俺が死ぬときはさ」 「死ぬ?」  突拍子もない話だ、と思った。僕は現実で兄が死んでいることを知っているのに、だ。 「そう、死ぬ。魂が肉体から離れるときの話」 「兄さんは魂の存在、信じてるんだね」  僕はどうでもいいことを言う。母の育てている花に水をやる。花びらに水をかけないように、丁寧に茎の根元に水をやる。 「そんなことはどうでもいいんだ」  兄も花に肥料を与える。 「俺が死ぬときは、多分、お前のせいだよ」 「何それ」  少なからずショックを受けた僕は、手元から視線を外した。また兄を見上げるが、やはり逆光で、兄がどんな顔をしているのかは分からない。 「だからさ、俺のこと忘れないでくれよ」 「なに、それ」 「お前のせいで死ぬんだから、俺のことを忘れるなよって話」 「……忘れないよ」 「絶対な」 「絶対なんてないでしょ」 「絶対だよ。俺の半身だろ?」  半身ではないと思うのだが、僕は素直に頷いた。半身という言葉が意外にも心地よかったからだ。 「憶えててくれるならいいや。俺、死んだらさっさと成仏してこの世から解放されよう」  何だそれ、と思う。兄が僕に近づいて、ぽんぽんと頭を撫でる。「お前は本当に」と兄が口を開いて――目が覚めた。僕は兄のベッドで、赤子のように眠っていた。  夢が、本当にあった過去の記憶なのか、僕の妄想なのかはっきりしなかった。夢の中の兄は僕のせいで死ぬのだと言ったが、それは僕に憶えていてもらうための口実に思える。いや、僕の望みが入った妄想なのかもしれない。  結局、兄の死んだ理由がなんだったのか、兄の封印が解けたのか、僕には何もわからない。兄が僕を愛してくれていたのかもと思うが、今となっては想像である。ただ、僕は少し、本当に少しだけ、嬉しいと思う。  夢の中で兄が世話をしていた花に、水をやろうと小さくそう思った。逆光で見えないはずなのに、兄が不器用に笑うのが見える。
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