あなたへ

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 あなたが生まれたのは、文明開化が叫ばれた時代でしたね。  私があなたと初めて会った時、あなたは若い力をみなぎらせていました。    あなたは少し暴力的で、私には合わないと思いました。  あなたは兄と、競っていたのかもしれませんね。  それで、勝ち抜くために肩を怒らせていたのだと思います。  あなたは成長し、若く力強くなりましたね。  わたしも運よくきれいに育ち、あなたと再びめぐり逢いました。  あなたは積極的で、わたしに力を誇示しました。  わたしも、あなたのしなやかな身体に惹かれました。  あなたはいつも、わたしを撫でてくれました。  わたしはそれがたまらなく気持ちよくて、あなたに寄りかかり、いつも甘えてばかりいたと思います。  あなたは肉が大好きで、わたしにも良く食べさせてくれました。  噛み応えのある赤身が、とろけるような脂身が、懐かしく思い出されます。  田畑を荒らすイノシシを仕留めた時、農家の人があなたに手を合わせていましたね。  白い雪が舞い、地面が白銀に包まれた時は、決まってあなたはわたしを包んでくれました。  何と暖かかったことか。あなたの身体の奥から、熱が伝わってきました。  雪が解け、黒雲が彼方に去り、地面に虫がいずる頃、あなたはわたしに求婚しましたね。  わたしの返事を聞くのは、やぼというものでしょう。  蕗の薹(ふきのとう)が緑を彩り、梅の花が咲き、桜の桃色のつぼみが膨らみはじめた頃、わたしとあなたは愛をはぐくみましたね。  初めての子は、死産でした。  わたしが嘆き、何日も食事をしないでいると、あなたは優しくわたしを抱擁し、わたしの叫びが止まるまで、ゆっくりと手をとってくれましたね。  季節はめぐり、わたしたちは成熟してゆきました。  二度目の交わりは、桜が散るころでした。ゆらゆらと花びらが散るさまは、今でもまぶたに焼き付いています。  小さな男の子が生まれました。  あなたは鼻を近づけて、幼い香りを存分に吸いましたね。  子供というのは、どうしてこんなに壊れやすくもあり、生きるという意味においては力強くもあるのでしょう。  あなたは子供に愛情を注ぎ、食事も与えてくれました。  なかなかできることでは無いと思います。  いつか子供は成長し、わたしたちは爛熟し、家族の形が変わってきましたね。  あなたが子供を追い出した時、何を思ったのか、わたしには分かりません。  きっと、自立を促すためだと信じています。  風の噂で、あなたはわたしたちの子が病死したことを知りましたね。  あの時の慟哭を、わたしは今でも忘れません。  ずいぶん長い回想を語ってしまいましたね。  お互い、毛に白いものが混じると、脳が衰える代わりに、饒舌になってしまうのかもしれませんね。  わたしの目は、白く濁ってきてしまいました。  でも、あなたの勇士は忘れません。  わたしの魂を、空に返す時がきたようです。  悲しまないで下さい。  私たちの子と、あなたのお兄さんの所へ行くのですから。  最後のお願いです。  どうか、あなたの遠吠えを、人間の里に響かせて下さい。  あなたは最後に残った、ニホンオオカミなのですから。  
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