虫籠8

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虫籠8

 硝煙に(けむ)る雨の路を二人は手に手を取って走った。  残光に眩む視界には瓦斯(ガス)灯に照らされた高い煉瓦塀がどこまでも続き、濡れた石畳に銃弾が撥ねる。脚を狙って撃ってくる後方の靴音が誰のものなのか。消耗し、眩暈(めまい)に襲われる(つげ)に振り向く余裕は無かった。 「こっちだッ!」  (リュイ)に引っ張られ、狭い路地に入る。真綿を踏むように足許がおぼつかず、視野が白く反転して前をゆく緑の姿もとらえられない。 「ここを登れば逃げきれる」  曲がりくねった路地の突き当りで緑が立ち止まる。  柘は肩で息をしながら首をもたげた。霞む視界に四メートルはあろうかと思われる古い煉瓦壁が黒々と聳え立っている。 「行け……おまえだけなら……逃げ切れる」  柘は(くずお)れるように膝をついた。とても今の自分に登れるとは思えない。 「頼むから……行ってくれ……これ以上……巻き込みたくないんだ」  追跡者の靴音が聞こえ、黒い雨空にサーチライトの白光が揺れる。  緑が腰を低くし、柘の腋下に肩を入れる。柘は渾身の力で突き飛ばした。小柄な躯は薙ぎ倒され、泥水のなかに転んだ。 「行け……おまえが生きれば……おれも生きる」 「いやだッ!」  緑が泥まみれの顔を上げ、夜気を(つんざ)く激しさで吼えた。  二人は見つめ合ったまま、迫り来る足音を聞いた。やがてサーチライトに捕らえられ、靴音が間近で止まる。柘は、緑を背に回して立った。逆光の中、拳銃を構えて立っていたのは河東平蔵だった。 「胡蝶(フーティエ)だな。爆弾テロの実行犯として逮捕する。そこを退けッ!」 「断る!」  柘は厳として返した。河東の脇にいた機関員の短機関銃の銃口が柘へと向かう。 「柘。おれは引かんぞ」 「おれも引くつもりはない。だが、取引に応じてくれるなら、考えないでもない」    張り詰めた沈黙が場を覆う。河東がそれを破り、 「言ってみろ」  苦々しく言った。 「彼の身柄を放棄してくれるなら、彼の持っている情報を提供しましょう」 「おまえは自分が何を言っているのか、分かっているのか」 「情報が欲しくはないのですか。このままテロが続けば内閣が倒れ、戦争が起こる。そう言ったのは貴方だ」 「それでも日本人かッ!」  激昂する河東を、柘は冷然と見返す。 「熱くなるのはよしませんか。取引をしようと言っているだけです。しかも悪い条件ではない。大義の前に個人の感情など塵に等しい。違いますか」  爆音と同時に、河東の南部十四年式自動拳銃が火を噴く。銃弾は柘の左耳をわずかに逸れて背後の煉瓦塀にめり込む。 「取引できんという訳ですか。ならば塀ではなく、おれを撃ったらどうです。生きている限りおれは彼を渡さない」 「無駄だ。おまえらは逃げられん」 「それなら死んでも、と言い換えましょう。渡すくらいなら、彼を殺しておれも死ぬ。おれたちを見縊(みくび)らないで頂きたい」  棚引く硝煙の中、柘の眼差しは静かで、よく通る低い声だけが張りつめた夜気を震わせていた。  河東はこの静けさに憶えがあった。帝大剣道部の主将になった夏、千葉の勝浦で合宿をした。一回生の中で一際腕の立つ柘を、河東はほとんど無理矢理連れて来ていた。日程の中頃、台風に見舞われ海が荒れた。波の様子を見に海岸へ行くと、すぐ先の入江で漁師の子らしい小さな男の子がふいに高波に攫われた。  そのときだ。右往左往する部員を他所に、柘が海に向かって走りだしたのである。思わず叫んだ河東へ、柘が一瞬眼を向けた。命を懸けるにはあまりに静かな、そして全てを捨て去った者のような眼だった。その眼差しが、河東の胸によみがえった。 「己の命より、国の大事より、そいつが大切だと言うのか」 「如何(いか)にも」 「国に対する反逆と承知の上だろうな」 「もちろん」    きっぱり言った柘の瞳は動かなかった。 (柘の覚悟はくつがえるまい……)  そう思う河東は同時に不思議でならなかった。河東の知る限り、柘は色恋に(うつつ)を抜かす男ではない。むしろその反対の何事にも関わらない世捨て人のような男だったはずである。思想的な行為ならまだしも、その少年に一体何があるというのか—— 「何故(なぜ)だ。そいつは数多の人命を奪ってきた殺人鬼だ。おまえが色に迷っているのなら、おれは赦さんッ!」 「河東さん。貴方はおれを被害者だと言いましたね。だが、幼い頃から否応無しに殺人を強要されてきた彼こそ、真の被害者です。彼はテロを手引する為ではなく、おれを救い出そうとアジトを突き止めた。利用された彼の心に罪があるなら、その罪はおれにある」  柘の眼の中に静かに燃焼する情の炎が見えた。河東は、柘の肩先から射るようにこちらを見据えている泥まみれの少年に眼をやった。少なからず意外だった。東和ホテルで見た女装の貌は息を呑むほど美しかったが、どこか人形のようで薄気味悪く感じたものだった。だが今、眼の前にいる少年はそれとまるで違っている。 「胡蝶。きさまはどうだ。紅布社を裏切ることに異存はないのか?」 「旦那がそうしろと言うなら、おれはかまわない」    歯切れのいい日本語が返ってくる。迷いのない眼だと河東は思った。 (人形に心を吹き込んだのは、おまえなんだな)  河東は、柘に眼を戻して溜息をつき、銃口を下ろした。 「確信犯め。取引には応じるが、身柄は拘束させてもらう。期間中は陸戦隊本部の宿舎に寝泊まりし、外出および個人行動の一切を禁じる。どちらか一方でも不審な行動が見受けられたら、即、胡蝶を逮捕し、おまえを本国へ送還する。異存はないな」    表情を和らげた柘をジロリと一瞥し、河東は踵を返して歩きだした。       五章「恋情」へ続く
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