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虫籠1
犬の遠吠えで、緑は目覚めた。
西洋の古い調度に囲まれた青い小部屋に、赤と青の色硝子で造られた芥子文の台灯が灯っており、窓の外にまた夜が来ていた。
榻にうつ伏せている緑の裸の背を、温かな掌がゆっくりと行き来する。香ばしい薬油の香とマッサージされる心地良さに、とろりとまた目蓋が重くなって緑は再び眠りを得ようと首の向きを変える。
「お目覚めですか?」
マッサージを施していた中国人の少年が、手をとめて訊く。西洋風の手押し車に載せた陶製の鉢から温めた薬油を掬いつつ、
「不快な箇所はありますか?」
と、また訊いた。
けれども緑に答える気など無い。つと眼に入った薬油鉢の、青白い地肌に藍暈しで描かれた花王と蝶の絵柄に見入る。
——花王と胡蝶が、情人の仲とは知らなかった。
地下室で殺された相棒の言葉を思い出し、緑は少しだけ微笑んだ。
花王と胡蝶が情人の仲だなんて、思ったことはなかった。ただ、いつも一緒で楽しそうだと、一緒であれば幸せなのだろうと、さらには胡蝶が羽根を休める安らかな家——そんなふうに思っていた。
〝胡蝶〟と呼ばれていたからだろうか。器や書画や様々な物にその姿を見出すと、ほとんど傍らには花王がいて、あたかも自分にも一対の花王がいるような、そんな気がしたのである。
(記憶の始まりに白花王がいたから、尚更そんなふうに思ったのかもしれない……)
取留めなく思いを巡らせ、幕を下ろすように目蓋を閉じる。いつもなら幸福な気持ちにさせてくれるその絵柄を見ても、今は少しも幸福ではない。
(眠っている方がいい。何も考えずに眠ったら、今度こそきっと旦那に逢える……そしたらおれは、カクテルをつくってやるんだ)
磨き上げたカクテルグラスに、キンキンに冷えたドライジンにフレンチベルモット。レモンまたはライム、極上の媚薬を少々、白い花びらを一枚。すうっと口当りがよくて胃に熱く、じわりと腰にくるやつ。
(そして、オードブルはおれ——)
ディナージャケットを着たジゴロ姿の柘が、キッドの白手袋をはめた長い手指でカクテルグラスを持ち、透きとおった酒を咽に流しこんで、ふっと息をつく。
——オードブルをくれないか。
——少々お待ちを。
少し淫らな眼つきで、柘がこっちを見ている。緑はその場でさらさらとバーテンダーの服を脱ぎ、カウンターを飛び越えて、オリーブと一緒に硝子の皿に載る。
——どうぞ召し上がれ。
柘が満足そうにうなずき、酒に濡れた舌で、緑の裸の胸をぺろりと舐める。
くすぐったくて緑が笑うと柘も笑って、二人はオリーブだらけの皿の上で熱く接吻する。
蓮池に沿った離れ屋敷の一室で、緑は榻に横たわったまま、夢のバーにいた。
「湯浴みをしますので、お仕度をお願いします」
肩を揺すられ、緑は不機嫌を露わに眼をあけた。
「あのう……お加減が悪いようでしたら……師傅にそうお伝えしましょうか?」
藤色の麻の長衫を身につけた小柄な少年が竦み上がっておずおず訊く。
緑は朦朧と背を上げつつ、軽蔑をこめて少年を一瞥した。
(そんな泣き言。師傅が聞くとでも思っているのか。わかっているくせに言うな)
腹の中で吐き捨てる。
術を解かれた直後の疲弊した躯を、陶は満面の笑みで容赦なく犯したのだった。黄泉の夢から引き戻されはしたものの、味わった苦痛は夢の延長ではないかと思うほど残酷で、その悶絶しそうなさまを、少年は紅紗の外から見ていたはずだった。
緑は白絹のローブを羽織って、榻から下りた。おどおどとこっちを見ている少年を顎で促し、青い花模様の絨毯を敷きつめた薄暗い廊下に出る。澡堂(風呂場)は棟の中ほどにあり、そのさらに奥まった所に陶の寝所はある。
湯浴みをして伽をするのは今夜で三日目。マッサージのおかげで筋肉はほどよく解れ、肉体的な支障はなくなっているものの陶と寝ると思うと気が滅入った。
(妾だな)
我ながらそんなふうに感じつつ、二年前はいつもこうだったと思いだす。
言われるまま誰とでも寝たけれど、当時は苦痛と感じたことはなかった。房は遊びで、遊びに興じている間は陶の機嫌がよかったからだ。
「おまえ幾つだ?」
湯気にけむる澡堂の扉に凭れ、緑は湯加減を確かめている少年に訊いた。色白の整った顔立ちから陶の小姓と思われたが、見憶えはない。
三日目にして初めて声を掛けられた少年は、驚いたように振り向き、頬を赤らめながら十五歳であると礼儀正しく応え、蜂と名乗った。
「どうして逃げない? ここは四川の山の中じゃなくて上海だ。使いのついでに姿を暗ましたって簡単には捕まらない」
「でも捕まったら、八つ裂きにされてしまいます」
「おれは生きているぜ」
「師兄は特別なのです。師傅がよく仰っていました。胡蝶は生きた芸術品なのだと。だから、近づくよう努力しなければいけないと。師兄は誰よりも美しく、賢く、一番の遣い手だと聞いています。こうしてお世話できることを光栄に思っています」
少年が膝をついて丁重にお辞儀をする。
緑は白々と見下ろしつつ、したたかなものだと思った。小姓は容姿もさることながら、世事に長けていなければ勤まらぬ。陶の自分への処遇を見、媚びを売ることにしたのだろう。宦官のごとくの小狡さは生き抜くための知恵だ。
「師傅がつける闇名が、なんで虫の名なのか、知っているか?」
「いいえ」
「虫螻だってことだ。おれも、おまえも、変りない」
「そんなことはありません。去年、知了(蝉)の兄さんが、武漢で逃げたんです。でもすぐ捕まって……両眼を、師傅に噛み取られ……手足を、一本ずつ爆弾で吹き飛ばされて死にました。とても……惨い死にようでした。だけど師兄は赦された。凄いことです!」
頬を紅潮させ、蜂が興奮した口調で言う。
緑は無言でローブを脱ぎ落とし、やわらかな湯気を纏うとろりとした湯をはった優雅な西洋式の浴槽に身を沈めた。
香油入りの湯はやや熱めだった。情事を前にぼんやりした躯を覚醒させようというのだろうけれど、緑の意識は一点に向けられる。
(どうして赦されたのか?)
今もって解せなかった。知了と同様に、逃亡した弟子たちが残酷な死を迎えるのを幾度となく見てきた。だから地下室で首を鷲づかまれたとき、緑は真実、最期だと思ったのである。
「いい加減、独りにしてくれよ」
「ついているよう師傅に言われています。お背中を流します」
全裸で戻って来た蜂が、浴槽の脇に屈んで緑の背中を洗いだす。されるに任せながら、緑は、かつて背中を流してくれた、六つ年上の知了の優しげな面差しを眼の奥によみがえらせた。
陶の四川の屋敷には常時数十人の弟子たちがいたが、緑と一部の小姓を除いては、全て丸坊主で黒染の粗末な修行着を着せられていた。扱いへの反感と、混血への侮蔑が相まってか、坊主頭たちはあからさまに緑を敵視し、言葉を交わす者も、近寄ってくる者もいなかった。それは母屋で身の回りの世話をする小姓たちも同様で、陶の手前、態度にはあらわさないものの、眼には露骨な蔑みがあった。
だが、知了の眼にそれを感じたことはなかった。静かな少年で、濡れた黒耀石のような綺麗な眼をしていた。随分大人で、話をするわけでもなかったけれど、眼が合うと笑みを返してくれたものだった。
あの濡れ濡れとした美しい眼が、陶の黄味がかった尖った歯に抉り取られたのだと思うと、残酷な光景を見慣れている緑にも惨たらしく感じられた。
「御髪を切ってしまわれたのですね。あの頃は腰まであって、紅の修行着に映えてとても綺麗だったのに……」
緑の栗色の髪を洗いながら、蜂が残念そうな口ぶりで言う。緑は、右眼の下に泣きぼくろのある、年齢よりも幼げな色白の顔をじろりと見上げた。
「ぼくが屋敷に上がったのは、十二歳のときです。師兄のお世話は、知了の兄さんがなさっていたけれど、ぼくもお手伝いしたことがあるんです。その頃、ぼくは坊主頭でしたから、憶えていらっしゃらないのも無理はありません」
蜂が恥ずかしそうに言って前に移り、緑の脚を洗いだす。
「武術はやらないのか?」
緑は訊いた。蜂の躯は貧弱で、三年も修行しているふうには見えない。小姓といえども武術は必須であり、知了もほっそりした躯にきちんと筋肉を備えていたものだった。
「護身程度はやりますが、戦闘訓練はしていません。素質がないのです。でも師傅は見捨てないでくださった。ぼくが学んでいるのは毒物と火薬です。筋がいいと誉めていただいています」
蜂のつぶらな眼が誇らしげに輝く。髪を肩まで伸ばしているのを見ても、上海に同行して来ていることを考えても、陶に気に入られていることが窺える。
弟子の世界は実戦力が全てだが、腕はそこそこでも、容姿が美しく才覚があれば小姓として生き残れる。山野できつい武術修行をする代りに、楽器や舞や性技を覚え、寒さに震えることもなく、きれいな衣を着、美味しい食べ物にもありつける。闇名さえ持たない坊主頭から見れば、天堂のように見えるだろうけれど、それだけだ。
緑は冷ややかに蜂を見下し、十五にもなって何もわかってないかれを腹の底で嘲った。
(師傅に特別などあるものか……)
緑は浴槽の縁にだらりと両腕を掛け、脚を投げだして眼を閉じた。そうしながら、それを思い知った日のことを目蓋の裏によみがえらせた。それは殺人の実戦訓練を始めた十二歳の春だった。その時の空の色まで緑は鮮明に憶えている。
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