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虫籠2
四川の山中に建つ陶の屋敷の裏庭は、死肉の腐臭と硝煙の匂いが消えることのない地獄であった。
茜に染まる夕空の下、板に縛られた坊主頭が狂ったように泣き叫ぶのを、緑は他人事として、陶の後ろから眺めていた。
全裸に剥かれた痩せた躯に赤い花飾りが結ばれ、地響きをともなって爆裂音が轟く。硝煙の中から血まみれの肉片があらわれるや、陶がうなずきながら検証へと向かう。
緑はその隆々たる長衣の背を見送り、一人物置小屋へ行ったのだ。木戸を開けて中に入ると、一羽の紅雀が道具の奥から飛んで来て、肩にとまって高い声で鳴く。傷ついて舞い込んだ紅雀を小屋でこっそり飼育していたのだった。陶は生き物の飼育を禁じていたが、幸い爆弾造りに余念がなく気づいてはいない。
「金宝」
つけた名前を呼びながら、厨房からくすねておいた稗を掌にのせて差しだす。金宝が肩から飛び移り、まん丸な黒い目を輝かせてうれしそうに啄ばみだす。
「うまいか?」
緑は床に座りこみ、今日あった出来事を話して聞かせた。すると金宝が黒い目をじっと向けて応えるように囀り、真似て鳴いてみせると高い声で鳴き返す。
どのくらいそうしていたのか、ふいに木戸が開き、陶が血のような夕照を浴びながらそこに立っていた。
怯えて飛び立った金宝が、一声で哭いて地に落ちる。ばたつく金宝の片翼に、暗針が突き刺さっている。
「首を千切れ」
陶が低く命ずる。
「どうした? 私の言うことが聞けないのか?」
緑は気圧され、下を見た。金宝が助けを求めるように脚の間に入り込み、かぼそい声で哭いている。
緑は叩頭して赦しを乞うた。恐ろしさに躯が震えていたが、一縷の望みがあった。
(ぼくは特別なんだ)
坊主頭たちは粗末な小屋で、鼠のように暮らしているけれど、自分は母屋に住み、食事をする時も、寝る時も、陶と一緒だった。しかも自分は小姓でもなく、世話をされる側で、髪を長く伸ばし、修行着も一人だけ紅色の絹だ。
「出来ぬなら、代わりにおまえの首を千切るぞ」
陶が事も無げに言い捨てる。緑は耳を疑い、眼を上げた。
「おまえは、私の一部になると約束した。だが背くなら、もう私の一部ではない。坊主頭同様腐った肉になるだけだ」
隻眼に冷い光が灯り、口辺に残酷な笑みが浮かぶ。
刹那、緑は袖口から峨嵋刺を滑らせ地を蹴った。
(殺らねば殺られるッ)
烈しい恐怖が殺意に変わる。峨嵋刺を放つと同時に陶の拳をかわし、陶の心臓へと指尖を突き込む。
(勝った)
思った瞬間だった。地を這うような呪文が耳の奥へと流れこみ、首に激痛が走る。次の瞬間、緑は闇の中にいた。
巨大な鋸が宙で青白く光り、それがすっと下りて、闇に縫い止められた緑の首に据えられる。逃げようともがいても手足は動かず、やがて音もなく滑りだした刃に緑の首は斬り落とされた。
気がつくと、陶の寝所の寝牀に寝かされていて、あたかも切断された首を繋いだかのように黒革のチョーカーが嵌っていたのである。
「本当に綺麗だ。師兄は、すべての理想をかなえているのですね」
立ち上がった緑の躯から泡を流しつつ、蜂が溜息を洩らす。
「世事も過ぎると、嫌味に聞こえるぜ」
「そんな……お世事じゃありません。ぼくは心底、理想的だと」
「ふうん。他の奴らは、おれをちびだと思っているぜ。けど抱くには丁度いいってな。おまえ、おれを抱きたいわけ? それとも抱かれたいのか?」
蜂が耳まで赤くなり、緑は鼻で笑って澡堂を出た。ローブを羽織って大理石の洗面台に向かう。古びた黒革のチョーカーが眼に入った。
春節ごとに陶が新しい品を用意して付け替えたものだったが、出奔して二年、付けっぱなしになっている。付けているからといって術に落ちないわけではなく、外したからといって術に落ちるわけでもない。頭では理解している。けれども外すことを想像するだけで、首が落ちる恐怖がよみがえり、取り去ることができなかったのだった。
「あのう……ぼくは口が下手ですが、師兄を尊敬しているのは本当です。信じてください」
澡堂から出てきた蜂が、後ろでおずおずと言う。
「おれに取り入ってもいい事なんかないぜ」
「取り入ろうなんて……ぼくは師兄が帰って来てくれて、嬉しいんです。こうしてお話しできて、嬉しいんです」
緑は無視して、次の間に入った。磨硝子の洋燈が淡い光を投げかける室内の中ほどに籐製の安楽椅子が置かれてあり、どさりと身を投げだす。
「今の一番手は蜻蛉ですが、師兄が帰れば、師兄がまた一番手ですね」
緑の髪を拭きながら、蜂がさも思い出したかのように言い、緑は笑った。
「なるほどな。おれに蜻蛉を消して貰いたいってわけか」
「違います。ぼくはただ、腕も容姿も一番の師兄こそが」
「いいさ。おれも、あいつは気に入らないし」
「今、文龍の下で動いてます。師兄がいなくなってから威張りちらしてやりたい放題です」
「ふうん」
生返事をしながら、緑は、蜻蛉の吊り上がった細い眼や、妙に赤い薄い唇を眼の奥に浮かべた。歳は、知了と同じくらいだったろうか。坊主頭から這い上がった実力者だが、性格が陰湿で評判はよくなかった。初仕事の決まった十三歳の春、御前試合でかれを負かしてから、何かにつけて嫌がらせをされたものだった。しかし腕はよく、現在一番手というのはうなずけた。
小刀子を得意とする、蜻蛉の巧みな指使いを思いやった途端、ふいに莫迦莫迦しくなる。
(誰が一番手だろうと知ったことか。おれが返り咲くとでも思っているのか)
緑は蜂の浅知恵を嘲り、それなら、いつまで此処にいるつもりなのか、と我が身を振り返って暗澹たる思いに沈んだ。
「いつまで此処にいるつもりだ?」
緑の脚に香油を塗っていた蜂が、何のことかと眼を上げる。
「このままずっと、師傅の許にいるつもりか?」
緑は見下ろして重ねた。
「……あのう……ぼくは親に売られたんです。頼れる親戚もいないし……」
蜂が泣きそうな顔になる。放り出されるとでも思ったらしい。身頼りのない子供が捨てられたら、乞食になって野垂れ死ぬか、地棍まがいの親方の下で襤褸を纏って強制労働をさせられるか、はたまた見世物小屋に売られて不具にされるなど、悲惨な末路が待っている。そんな目に遭うより、此処にいたほうがましだと蜂は思っているようだった。
「ぼくには行くところがありません。何でもしますから、赦してくださいッ!」
蜂が眼に涙を浮かべて両手をつく。
「追い出すなんて、言ってない……」
緑は顔を背け、安楽椅子から腰を上げた。泣き顔の蜂が後ろに立ち、菊文の豪華な刺繍を施した紗の長衫を着せつける。
(着飾ったって、どうせすぐ脱ぐのに——)
緑は陶の稚児趣味を軽蔑し、着せ替え人形と同じだと思った。その証拠に、きらびやかな中国式の衣装を纏った西洋人形が姿見に映っている。
涙を納めた蜂が、自身の身支度をすませて扉を開ける。緑は黙って後に続いた。青い廊下を歩きながら、ひどく重苦しい気分になっている。それは蜂を泣かせたからではなく、かれの発した言葉が、緑の何処かを抉ったからだ。
(行くところがない……)
口中でつぶやき、打ち消す。
(そんな事はない。行く所くらいある。隠れ家だって幾つも持っているし、銭だってある。生活に何の不自由もないし、そうやって生きてきた。これからだって、そうすればいいだけのことだ)
緑は自分に向かって強く言った。けれども心は問い返す。
——だったら、なぜ此処にいる? 籠の扉は開いているではないか。
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