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虫籠3
緑はまた、犬の遠吠えを聞いた。長く尾をひく咆哮が途切れる頃、さらに遠くで咆哮があがる。
犬が何匹いるのか知らないが、緑にはなぜか同じ犬同士が呼び合っているように聞こえた。
(あんまり哭くと、殺されるぞ)
吠える犬は猟犬に適さない。緑は心の中で仲良しの犬たちに注意してやり、同時に呼び合えた相棒の死を、堪えがたい孤独な心で確かめた。
「失礼いたします」
阿片の烟にかすむ寝台内に、小姓が紅紗の帳を分けて入って来る。
緑は寝そべったまま、気怠く眼をやった。三日前の惨澹たるさまを蜂と並んで見ていた蟻という闇名の小姓である。年の頃は、蜂と同じくらいだろうか。蜂より躯は大きいが、女っぽい顔をしており、受け口のぽっちゃりした唇に幼さが残っている。
傍らに横たわっていた陶がおもむろに背を上げ、蟻が持ってきた玉杯を飲み干す。精力剤に違いない。
(まだやる気か……)
緑は辟易し、年齢にそぐわぬ隆々たる背中を睨んだ。
昔から見慣れた背中だが、いつ見ても不格好だと思う。肩の幅がそのまま腰まで続いていて、要するにずん胴なのだ。潰れた円柱のような背中を見ているうちに、ふと、肩幅が広く胴の締まった格好のよい背中が脳裏に浮かぶ。
(旦那……)
抱き合ったのは一度きりだったけれど、肌理のこまかい温かな肌の感触も、湿った息も、熱い肉の摩擦も、何もかも鮮明に憶えている。
緑は、それらを身ぬちによみがえらせようと眼を閉じた。終えたばかりの性交の名残で作業は難しくなかったが、躯と反対に心は寂しさで満ちた。
紅紗の外で阿片泡をつくっていた蜂が、烟斗(阿片煙管)を捧げながら寝台内に入って来る。緑が受け取らないでいると、陶が振り向いて喫むよう薦める。催淫剤でも調合しているのか、口辺に好色な笑みが浮かんでいる。緑は裸の背を返し、烟斗を受け取って唇へ運んだ。
「よしよし。気持ちを楽にして深く吸い込むのだ。明後日は北京へ立たねばならぬ。もちろん、おまえも一緒だが、明日から少々忙しくなるゆえ、こうしてのんびり過ごす事もかなわぬ。その分、今夜はゆっくり楽しむことにしよう」
緑の素直な態度に、陶が満足げに隻眼を細める。自らもゆったりと阿片を喫みはじめた。瑪瑙色の硝子を透かせた台灯の光が、紅紗を巡らせた寝台内を淡い色に染めている。
緑は枕に背をあずけ、ぼんやり烟斗を燻らせた。甘い烟は一旦澱んで宙に留まり、やがてゆっくり上昇して天蓋の闇に消えてゆく。烟の行方を見送り、朱赤の壁に穿たれた縦長の窓に眼をやる。運河を覆う蓮の葉が篝火の周囲だけ火色に染まり闇に浮かんで見えた。灯明にかすむ夜の運河を、柘と二人、蓮の葉を掻き分け進んだことが夢のように心に広がる。
(楽しかった……)
恐れもあったが、気持ちは高揚していた。
〝リュイ・スペシャル〟咄嗟に出たオリジナルカクテルの名前——
緑は微笑み、そして消した。
〝リュイ〟という名が、他人のように遠かった。
緑はきつく目蓋を閉じ、込み上げる涙に耐えた。
(旦那はおれを信じてくれた。だのに、おれは……)
睫毛を押して涙がこぼれ、片手で顔を覆う。引鉄を引く一瞬、恐ろしさに眼を瞑ってしまった体たらくが許せない。
「泣いているのか?」
寝台がぎしっと軋んで、緑は息を殺した。
「いいえ、烟が……沁みたのです」
呼吸を整えてそう答えると、寄ってきた陶が烟斗を取りあげ、両手で緑の顔を挟んで引き上げる。
「そうか。てっきり、死んだ男を思い出したのではと思ったが、勘違いで良かった。そうでなければ、また仕置をせねばならぬところだった。よしよし。それでこそ、私の胡蝶だ。どれ、眼を治してあげよう」
陶の長い舌が伸びてきて、思わず眼を瞑る。阿片の世話をしていた蜂と蟻が、紅紗の向こうで固唾を飲む。
「ふふ、なにを怯えている? 知了のことでも聞いたか。案ずるな。戻ってきたおまえに、そんなことはしないよ」
陶が低く笑い、震えている緑の頬を撫でる。左右交互に、緑の眼を舐めまわして舌を退く。
血の気の失せた緑の頬は、溢れた涙で濡れていた。
「おやおや。泣かせてしまったようだね。だが濡れたおまえの眼は、翡翠の宝玉のごとく美しい」
陶が愉快そうに眺め、今度は唇を吸う。
長い舌が蛇のように口中深く入り込んで、緑は息が詰まって、また涙を流した。
「どうした。今夜は泣き人形か?」
陶がにやっと笑い、仰臥するよう指図する。蜂と蟻がそそくさと部屋を出て行ったが、緑は動かなかった。
〝人形〟という言葉が、緑のどこかを揺さぶった。
「ぼくは……人形ですか?」
言葉にした途端、愚問に思う。
(坊主頭の弟子でも、小姓でもないおれは、師傅の玩具だ。言われるままに着飾り、抱かれ、人を殺す。師傅が満足すればそれで良く、それ以外はなにも無い)
けれど——
緑は考えた。何か、ある筈だった。そうでなければ、こんなに苦しい筈がない。
「おまえは私の作品だ。そんな事も忘れたのか。おまえはなにも考えず、私に従っておればよいのだ」
「でも……ぼくにも……心が……あります」
「おまえに心などいらぬ」
「でも、心はある! 虫螻だって、心はあるのです!」
緑の胸に、柘の声が響いていた。それは緑のどこかを熱く揺さぶるものだった。
「貴方の汗と……ぼくの汗と……どれだけの隔たりがあると言うのです。人は皆同じだ。血が赤いのと同じく、どんな人間にも心がある!」
「死にたいか、胡蝶ッ!」
首を鷲掴まれ、夜具に引き倒される。喉を圧迫され、緑の顔が引き歪む。
「化物屋敷から救い出してやったのは誰だ。己の技を惜しみなく授け、愛しんでやったのは誰だ。その大恩を忘れて背くと言うのなら、蛆の寝床になるだけだ。夢ではない肉の裂ける真の痛みを味わってみるか」
見下ろす隻眼に残虐な光が灯り、鷲掴まれた首に熱い痛みが走る。
「ぼくが間違っていましたッ!」
緑は叫んだ。
「誤りに気づいたか?」
陶の顔がゆっくり弛緩して嘘のような笑みがはりつく。緑は冷汗に濡れながら何度もうなずいた。
「首輪を外すのだ」
陶が鼻先まで顔を寄せる。震えている感触を楽しむかのように硬く冷たい手指が緑の躯を撫でまわす。見下ろす隻眼は淫欲に血走り、尖った黄色い歯をもつ口許に冷酷な薄笑みが浮かんでいる。緑は声も出ぬまま目を瞑り、両手で首を隠した。
「どうした? 私の言うことが聞けないのか?」
「ゆッ、赦して……ください」
「怖がらなくていい。誤りに気づけば、可愛いおまえを殺しはしないよ。いつだって赦してきただろう。姿を暗ましたおまえを、私は赦した。刃向かった愚行も、見逃してやった。そんな振舞を、他の者に赦したことがあったか?」
陶の手指がチョーカーの内側へと入り込み、緑の躯がそうとわかるくらい震えだす。恐怖に息を乱しながら、緑は縺れる指で懸命に金具を外した。
「よしよし、いい子だ。何も考えず、全てを私に委ねるがいい」
かさついた唇が、喉もとに吸いつく。傷痕を舐められ、気が遠くなる。朦朧とする視界で、陶が律動していた。擦れる秘肉から異様な疼きが湧いてきて、緑は悶えた。陶が白髪を振り乱して愉快げに笑う。心に白花王の大輪を描こうとしたけれど、できなかった。
(心が……無いのかな?)
虚ろな問いかけは肉の喜悦に掻き消され、緑は墜落した。
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