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虫籠4
眼を開けると、静かな雨音が辺りを包んでいた。薄暗いがまだ宵ではないらしい。
蜻蛉が呼びに来て、陶が部屋から出て行ったのをぼんやり覚えているけれど、それからどのくらい時間が経ったのか、緑には見当もつかなかった。
紅紗ごしに覗きこんだ蜻蛉の侮蔑のこもった眼差しが思いだされたが、すぐに消える。胸の中は空っぽで躯は怠く重かった。
(これからどうする?)
心に訊ねてみたけれど、答えは返ってこない。
そっと扉が開いて、蜂が部屋に入って来る。紅紗ごしに眼が合うと驚いたように背筋を伸ばし、食事を運んでよいかと訊いた。昼はとうに過ぎているとの事だったが、食欲はまるで無く、媚薬の名残か躯の芯に疼きを感じた。緑は彼を呼び寄せ、手を伸ばして寝台に引っぱり込んだ。
「なあ、やらせてくれよ。そしたら蜻蛉を殺してやる」
蜂はぽかんと見入っていたが、やがて頬を染め、藤紫色の長衫を自ら脱いで裸になった。
緑は自分よりさらに小柄な躯に圧しかかった。行為は短かった。楽しむ気など無かったから、即効で上りつめたのだった。
けれども蜂は、それを興奮と勘違いしたらしく、置いていかれたにもかかわらず満足そうな顔で自分で処理し、身を投げだした緑の傍らに情人のごとく寄り添った。
「寂しいな……」
雨音を聞きながら、緑は誰にとも無くつぶやいた。
「ぼくは嬉しいです。尊敬する師兄に抱いて貰ったんですから」
蜂が声を弾ませたが、緑は応えず、ぼんやり天蓋を見上げた。紗幕に囲まれた四角い寝台が、虫籠のように見えた。
「知了は……どうして逃げたのかな」
ぽつりと言うと、蜂がしばらく沈黙してぽつりと返す。
「知了の兄さんには、情人がいたんです。見つかった時、女の人が一緒だったと聞いています。でも、捕まる寸前に殺したのだそうです。惨い殺され方をするより、その方が幸せですよね。兄さんは優しい人だったから、そうしたのだと……ぼくは思っています」
蜂がつかのま押し黙り、
「師兄はどうしてですか?」
と訊いた。
緑は答えなかった。
沈黙を埋めるように、蜂がまたぽつりと話しだす。
「師兄は、大人なんです。四川を出たのは、今のぼくと同じ年ですよね。ぼくにはとてもできません。逃げられたとしても、行く所もないし、何をすればいいのかもわからない……やりたい事といっても、のんびり寝たいって事くらいしか思いつかないし、やっぱり恐いです。ぼくには此処しかないんです」
蜂の声は、雨音に混じってもの哀しく響いた。
緑は紅紗ごしに縦長の窓へと目を向けた。四角に切り取られた蓮池の風景は灰色にけむって寒々しく見え、つと、仲良しの犬たちへと思いが向かう。
(この雨に打たれながら、庭を徘徊しているのかな? それとも、ねぐらで身を寄せ合って睡っているのか……)
緑の耳に遠吠えは聞こえない。蕭々と降る雨が涙のように蓮の葉を濡らしている。
「——情人は一蓮托生だと知っていたか。どんな運命だろうと共にして、死んだらあの世で一つの蓮の花になるんだ」
船宿で聞いた楊の言葉が、なぜだか重く緑の胸に残っていた。池を覆う蓮の群生に花の姿は無いけれど、知了とその情人が結んだ淡紅色の蓮の花が、緑には見えるような気がした。
「師兄には、情人がいるのですか?」
緑が首を振るのを見て、蜂の顔が色めき立つ。
「この二年間、何をしていらしたんですか?」
「半年ほどは……旅をしていた」
「へえ、凄いですね。一人旅なんて、ぼくには寂しくてできません。でも師兄と一緒なら楽しそうだな」
蜂の弾んだ声が、緑の胸を刺した。その痛みは、ある日本人の像を結び、眼の奥が熱く痺れてきつく目蓋を閉じる。
「やっぱりこれ、師兄への贈物だったんですね」
蜂が背中にすり寄って、誇らしげに言う。
緑の首には翡翠を繋いだ幅広の首輪がぴたりと嵌っている。
「上海へ来た最初の頃、師傅が南京路の宝石店で購入したんです。ぼくと蟻が供をしたんですが、首回りを計るのに、師傅が蟻の首につけたんです。そしたらあいつ、自分がもらえると勘違いして」
蜂がくすくす笑う。
「こんな高価な品、あいつが貰えるわけないのに。あいつ、本当に莫迦なんです。この間も調合を間違って、今度失敗したら毒壷に突っ込むぞって師傅に叱られて、泣いていました。よい気味です。蜻蛉と寝たからって威張りやがって」
ひとしきり口汚く罵ると、蜂が緑の肩に顔をのせる。
「明日は北京へ立つのですよね。向こうへ着いたら、どこか遊びに連れて行ってくださいね。ぼくはどうも臆病で一人じゃ何処にも行けないんです」
甘えた口調で言う。
「どうしておれが、おまえと遊びに行かなきゃならない?」
「え……でも、あのう、一緒の方が楽しいですよね」
「どうして、おまえと一緒だと楽しんだ?」
抑揚のない緑の声に、蜂が狼狽える。
「でも、あのう、ぼくを……好きになってくれたから、抱いてくれたんですよね?」
「好きだなんて、いつ言った? おまえなんか……」
不機嫌を露わに振り向くと、蜂が怯えた顔で緑を見ている。
(なんでおまえなんだ?)
思った瞬間、蜂を寝台から蹴り落とす。
「出ていけ! 二度と顔を見せるなッ」
長衫を掴むや投げつける。尻もちをついた蜂が泣きながら長衫を拾い、素っ裸のまま廊下へ飛び出して行く。
「おまえなんか……」
緑は震える唇を引き結んだ。堰を切ったように涙が溢れ、夜具に突っ伏して声を殺して泣く。
払っても払っても胸の中に忍びこみ、締め上げては涙を溢させるこの苦しい感情がなんなのか、緑は知ったのだった。緑の心に闇の中の蝶が浮かんだ。籠から這いだして飛ぼうと思っても、闇に迷って飛べないのである。二年前は、ふいに差しこんだ一条の光に向かって飛んだのだった。けれども今は、向かうべき光が失われてしまったことを虚ろな心で噛みしめる。
緑はごろりと躯を返し、天蓋を見上げた。涙は乾いていた。泣かせてしまった蜂を哀れに感じた。
(あいつの為に蜻蛉を殺すか)
思ってみても、いささかも心は動かなかった。何もかも虚しく思えたが、それでもする事はないかとしばらくあれこれ考える——が、なにも浮かんでこなかった。
「おれって空っぽ……だって人形だもん」
緑はおのれを嘲笑い、寝台の脇を探った。陶には、寝台に小刀子を潜ませる習慣があるのだった。ほどなく指に金属が触れ、メスのような細い小刀子を抜き取る。
(追いつけるかな?)
縦長の窓に切り取られた蓮の群生を見つめ、心に淡紅色の花の姿を描く。耳の下に刃を当てがい眼を閉じる。
(旦那ッ!)
心で呼んで刃を引こうとしたその時——
ドン!
扉が蹴られ、腰に日本刀を差した黒ずくめの蒋がふらりと部屋に入って来くる。
「おまえが此処の飼い猫だったとはな」
蒋が低く言った刹那、緑は小刀子をかざして寝台から跳んだ。紅色の紗幕がひるがえるのと同時に蒋は床に倒されていた。喉に小刀子の刃がひたりと付いている。
「旦那が死んだら殺すって言ったよな。あんたが地下に下りてりゃ、旦那は死なずに済んだんだッ!」
馬乗りになった緑が、凄まじい形相で怒鳴る。次の瞬間、翡翠色の眸子からぽつりと涙が落ちて蒋の頬を濡らした。
「やっぱり、そうか……」
見上げながら、蒋が長い溜息をつく。
「麗猫よ。哥さんは死んじゃいねえぞ」
潤んだ翡翠色の眸子が見開かれたまま凝結する。
「もういっぺん言ってやろうか。哥さんはな、生きている! 分かったか?」
皺を刻んだ蒋の目許が温かさを滲ませて細まる。
「ほ……んとか……嘘だったら……殺すぞ」
「嘘か真か、そのでかい眼で確かめてみるといい」
蒋がにやっと笑う。緑の白い手がわななき、小刀子が床に落ちる。蒋の腹にへたり込み、緑が両手で顔を覆う。引き結ばれた唇から嗚咽が洩れだし、指の間から涙が滴り落ちる。
見上げる蒋の胸に深い感慨が満ちた。誰も信用せず、誰のことも心に留めない。そんな少年が他人を想って泣くなど誰が想像できただろう。蒋は吐息をつき、緑の裸の膝小僧をぽんと叩いた。
「だがな、麗猫。ぼやぼやしてっと、本当に殺されちまうかもしれねえぞ。おまえがぶっ倒れちまった後、かっ攫われてそれっきりだ」
「誰にッ!」
弾かれたように緑は顔を上げ、そのまま視線を凍らせる。戸口に黒い長衫を纏った陶が立っている。
「くらげ風情がなに用だ?」
澄ました顔に不機嫌をのせて、陶が蒋を見下ろす。
陶の背後で、泣き腫らした眼をした蜂が料理を載せた盆を持って立っている。
「胡蝶は、これから食事なんだよ。躯の具合が悪くてまだ一人で食べられぬのだ。世話が焼けるが、愛弟子の我儘に付き合ってやるのも師の楽しみの一つ。邪魔をせずに出て行ってくれないか」
陶が蒋に向かって迷惑げに言い捨て、緑に微笑みを向ける。
「胡蝶。そんな格好をしていると、風邪をひいてしまうよ。ローブを着て椅子に座りなさい」
陶が窓際の椅子を指さす。鷹揚な表情とは裏腹に隻眼は冷淡な光を宿している。
「おい、麗猫。お師匠さんの言うことは聞くもんだぞ」
蒋が、動かない緑の膝を叩いて立ち上がらせる。自身も起きあがり、緑に靴を履かせ、裸身にローブを着せてやる。陶へと向き直った。
「よう、お師匠さんよ。あんたが、どんだけ偉いか知らねえが、一つ言わせてもらうぜ。こいつにはこいつの考えがある。まだまだ餓鬼だが、それでもちっとは成長した。そういうもんを、黙って見守ってやるのが師匠ってもんじゃねえのかい。え、お師匠さんよ!」
凄まじい気勢を吐くや蒋の拳銃が窓へと向かう。銃声と同時に窓硝子が砕け散った。
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