虫籠5

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虫籠5

 鐘が鳴りだして、柘は鉄格子の嵌った小窓に歩み寄った。闇に染まった木々の向こう、尖塔に十字架を頂く徐家淮教会の双塔の灯が夜の雨に滲んで見えた。 (誰かが死んだのだろうか……)  こんな時間に鐘が鳴ることはなかった。  低い鐘の音は、七年前の母の葬儀の日を思い起こさせ、父の後ろ姿をよみがえらせる。  事件以後、独自に紅布社を追い続け、特務機関を設立したという父は、この月日をどんな思いで過ごしてきたのか——  夜の雨を見つめながら、柘はつと父に思いを馳せ、振り向いて鉄の扉を睨んだ。身動きできぬ苛立ちのうちに四日目の夜が来ていた。  ガーデンハウスの二階に設えられた監禁部屋は、簡素なホテルの客室のようであったが、鉄格子の嵌った小窓と覗き穴のついた鉄の扉が、(いや)が上にも囚われの焦燥を掻き立てる。柘はまた部屋の中を歩き回った。どうにもならないと分かっていても、そうせずにはいられないのだった。  ——あの忌まわしいほど綺麗な蝶も、ひねり潰してやろうか。  真山の口から溢れた一言が、日を追うごとに柘の胸を灼き、一時も休むことができないのである。 (また……失ってしまうのか?)  不吉な予感に囚われた刹那、柘は壁を強打していた。皮膚が弾ける熱い痛みが忌わしい己の生を実感させる。 (どうしておれは生きている? 不幸を撒き散らす化物のくせに)  壁に凭れ、成す術なく頭を抱える。大切に思えば思うほど、その者たちは命を落とし、望めば望むほど物事は反対へと動いてゆく。その暗い諦観は、九年前の憲兵隊の牢の中より柘に取り付き、ヴェーダとその躯に宿った小さな命を護れなかった挫折感が、あたかも止めの一撃に似た力でわずかな希望さえも毟り取るのである。  ——おれ……とっくに裏切り者だもん。 (告白を聞いた時、()ぐさま力づくでも帰していたら……) 「(リュイ)……」  柘は眼をあけ、自身を見るかのように壁を睨んだ。有らん限りの憎しみを込めて血まみれの(こぶし)を振り上げる。 「おい! おれを困らせるなよ」  扉の覗き穴に、河東平蔵の切れ長の眼がのぞく。 「いい加減、(めし)を食え。でないと口へ押し込むぞ」  血を流す柘の拳を悲痛な思いで見つめつつ、河東は平静を装い、冷めた口調で重ねる。  監禁された日から柘は食事の一切を拒否し、ベッドも使用することなく真っさらなままだった。眠らず食わず凝然と扉を睨みつづける柘の姿は、河東に九年前の割腹事件を想い起こさせ、縛りつけてでも食事をさせ、薬を使ってでも眠らせねば狂うのではと不安に駆られる。  河東は背広を脱いで、携帯していた南部十四年式自動拳銃を食事係の鈴木に預けた。動きやすいようシャツの袖を捲り上げ、用意していたロープをベルトの後ろ腰に挟む。  海軍陸戦隊と連携した紅布社総攻作戦が明晩に迫っていた。作戦が始まれば、しばらく戻って来れなくなる。柘をこのままにしてはおけぬ。 「河東さん。援軍を呼んだ方が良くありませんか?」  小柄な鈴木が心配そうに眉を寄せる。連れてこられた初日、柘を捕り押さえるのに三人掛りで梃摺(てこず)った経緯を懸念しての言葉である。 「心配するな。あいつは四日も食っていない。おれ一人で充分だ」  河東は苦笑いして首を振った。寄ってたかって押さえつけられた柘の屈辱を思うと、とても助っ人を呼ぶ気にはなれない。  河東は扉を細くあけ、素早く部屋へと身を滑り込ませた。廊下にいる鈴木が、間髪を容れず扉の鍵を締める。柘は床に座り込んだまま身じろぎもしない。 「壁なんぞ殴っても何も出てこんぞ。飯を食ったら手当てしてやるから、大人しくそこに座れ」  河東は扉を背にして身構えつつ、部屋の中ほどにある木製の椅子を指差した。すると柘がふらりと立ち上がり、真っさらなベッドに腰を下ろす。連れてこられた時のごろつきまがいの薄汚れた風体ではなく、シャワーを使って衣服を改め、きちんと髭も剃っている。三日目までは、それこそシャワーも使わずひたすら部屋の中を歩きまわっていたのだが、ゆうべふいに行動を変えたのだった。こちらを油断させるための策であると鈴木は取ったが、何度も壁を強打しては血を流しつづける柘の姿を見ていると、日頃の冷徹さが揺らぐ河東である。 「椅子に座れよ。行儀が悪いぞ」 「椅子は飽きた」  柘がベッドに腰掛けたまま、すねたふうにつぶやく。やつれの見える端正な横顔は悄然として闘気は感じられない。  河東は、演技か否か見定めるよう眼を細めた。自傷行為をしたとしても、割腹自殺を計った九年前と今とでは状況が違う。今の柘には此処から出て相棒を救うという目的がある。だが、生きる意味すらわからぬ柘が、やっと抱いた、たった一つの願いは、またも本人の預かり知らぬ第三者の都合によって聞き届けられることはないのである。  河東は一つ息をつき、食事用の小型のテーブルを移動させ、ベッドに座る柘の前に据えた。扉下から食事の盆を引き出し、テーブルにのせる。 「食べろ。全部食うまでここを動かんからな」  正面で仁王立ちして促す。柘が料理に眼をやり、素直に箸をとる。が、血に濡れた手指から箸がすべり落ちる。 「仕方無い奴だな、無茶をするからだ」  河東は溜息をつき、柘の横に並んで座った。癖のない髪が無造作に額に掛かる静かな横顔は、帝大時代の柘を彷彿させる。小ざっぱりした白い開襟シャツにズボンという姿も、当時を思い起こさせた。  河東は柘の代わりに箸を持ち、飯碗を取った。 「ほれ、口をあけろ」  上体をひねり、柘の口へと飯を運ぶ。直後、柘の腕が飯碗や箸を薙ぎ払った。同時に横ざまから飛びかかり、馬乗りになって河東の首を絞めつける。 「河東さんッ!」  覗き穴から見ていた鈴木が、鍵を開けて飛び込んでくる。 「来るなッ」  柘の手を掴み返して叫んだ直後、柘の膝が河東の腹に食い込む。 「ぐッ……」  息が止まった一瞬の間に柘が飛び退き、鈴木目掛けてテーブルを蹴る。そのまま廊下へ飛び出した。 「待てッ……つ…げ」  河東は腹を押さえて廊下へ出た。吹き抜けの手摺を掴んで見下ろすと、階段を猛然と駆け下りる柘の姿が見える。 「銃をかせッ」  預けていた拳銃を鈴木から受け取り、柘の足元目掛けて引鉄(ひきがね)を引く。  ズガンッ!  耳を劈く銃音が轟き、柘の足が止まる。 「甘いぞ、柘ッ! 出たいならおれを殺してから行け!」  棚引く硝煙の向こうで、柘が不敵に見返す。次の瞬間、手摺を飛び越え一気に階下へ飛び降りた。 「捕らえろッ! 柘を逃がすな!」  機関員らが玄関ホールへと走る。柘に組みつき、烈しく揉み合う。 「放せッ!」  群がるように組みつかれ、柘が灰色のリノリウムの床に倒れ込む。  その時——パーン!  一発の銃声が鳴り渡り、クリスタルの粒を幾重にも垂らしたホールのシャンデリアが唸りを上げて落下した。
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