虫籠6

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虫籠6

 激しい雨音を聞きながら、真山龍一は磨き上げられた牛革の執務椅子に凭れ、詩集に挟んだ古い写真を見つめていた。上質な綿ブロードのシャツに渋い色目のネクタイを結び、仕立ての良い焦げ茶色のフランネルの上着を痩せた肩にゆったりと羽織っている。不健康なほど白い面長の顔、秀でた額、切れ上がった知的な眼、高い鷲鼻、薄い唇。細い眉も虹彩も、撫でつけた柔らかそうな髪も茶色味がかり、大陸的な複雑な血統を感じさせる。  真山は神経質そうな頬をゆるめ、写真に向かって柔らかく微笑んだ。手許を照らす洋燈の淡い光の中、はにかんだ笑顔を見せているのは三高の学帽を被った二人の少年だ。椅子に座る気難しそうな色白の少年の学らんの肩に、後ろに立つ、同じく学らん姿の素直そうな背の高い少年が手を掛けている。十年前の冬、大文字山に登った帰りに思い立って写真館で撮影したものだ。  夜半から雪が降りだした寒い朝だった。暗いうちから学寮を抜けだし、柘と肩を並べてまだ誰も足跡をつけていない一番の雪の上を歩いた。  やがて如意ヶ岳から朝日が昇り、一面の銀世界が虹色に輝くのを見たとき、極楽浄土の存在を信じた。即興でつくった詩を吟じると、柘が腕組みをして神妙な面つきで聞き入り、そしてぱっと白い歯を見せ、少女趣味だと笑った。  腹が立つやら恥ずかしいやらで、雪玉を握ってぶつける。柘が笑いながら駆け出し、柘を追って雪道を走った。白い息が次第に近づき、縺れ合って雪上に転がると、真っ白な世界に二人きり、という恍惚とした喜びに胸が震えた。  柘は大の字になって眼をほそめ、空から落ちてくる花びらのような雪を見ていた。傍らに寝そべり、その整った男っぽい横顔を眺めながら、柘には白がよく似合うと思った。  そして、その白さごと彼を欲しいと思った—— 「何用ですかな?」  音も無く部屋に入ってきた(タオ)に眼もくれず、真山は静かに詩集を閉じた。 「胡蝶(フーティエ)が戻って来ないのだが、貴方なら御存じかと」 「生憎だが、おれは虫籠の番人ではない。飼い主の貴方が知らぬのを、どうしておれが知っているのです」 「蓋を開けたのが、貴方の飼っている黒獅子でも、ですか?」  黒い長衣を纏った陶が机に向かう真山の脇を通り、雨が烈しく硝子戸を叩く西洋式の窓辺に立つ。 「あの日本人を攫って、何の益があるのです」 「答える義務はありませんな」 「指揮権は、龍頭(ロントウ)である貴方にある。しかし胡蝶に関しては、御父上から権限を頂いている。あの子の情緒が安定するまで、手出し無用と申し上げたはずです」 「大層な心配ぶりですな。そんなにあれが大事なら、ピンで止めたらいかがです。腐らないよう防腐剤でもふりかけて、さぞ美しい標本ができるでしょうよ」  真山は鼻で笑い、執務椅子の肘掛けに凭れて、陶の取り澄ました横顔に目をやった。武術のみならず化学や薬学にわたる広い見識は認めるべきものがある。しかし、胡散臭い妖術を操るこの男を真山は生理的に嫌悪している。 「貴方は昔から、必要以上に胡蝶を憎んでおいでのようだが。何か理由でもおありか?」 「妙ですな。それではまるで貴方が、そうでは無い、というふうに聞こえるではありませんか」 「異なことを。師としてあれを愛しみ、護り育ててきた。さように言われる憶えはありませんぞ」 「ほお、貴方の愛とは、弟子を木偶(でく)に仕立てることですか。思想も道義も持たぬから、ああしてふらふら籠を抜けるのですよ。殺しと色だけ教えこんで一体何をさせようというのです?」  真山は机に頬杖をつき、やや首を傾げて、窓辺に立つ陶の肩まで垂れた白髪と、筋肉を盛り上げた逞しい後ろ姿を眺めやった。  父、張栄巣(チャン・ロンホー)から武術指南役として紹介されたのは十一年前の早春——日本へ向かう準備をしていた頃だ。四十を過ぎたばかりだというのに既に髪は真っ白で、ぎょろりとした隻眼が異様な光を放っていたのを憶えている。  武芸の達人で暗器術にも長け、自ら暗殺も請け負う陶の調査を部下にさせたことがある。その結果、意外な事実がわかった。彼は林宣(リン・イー)という武芸の名人の内弟子で、優れた使い手であったにもかかわらず破門され、武術界から追放されていた。そして、その二年後、彼が片目を失うのとほぼ時を同じくして林宣は突如門派を閉ざし、行方不明になっているのだった。 「貴方の大事な虫螻(むしけら)を、どうして今まで放っておいたのです? 林宣という人物に何か関わりがあるのではないのですか? 貴方の目を潰すほどの人物なら、さぞ素晴らしい使い手でしょうな。個人的に武術の指南役が欲しいと思っていたところです。紹介願えたらありがたいのだが——」  振り向いた陶に口許だけの笑みを向けると、陶の顔がゆっくり弛緩して気味の悪い薄笑みを浮かべる。 「毒蜘蛛——と、御父上がお呼びになるのも、うなずけますな。貴方の巡らす糸は想像以上に毒を含んでいるようだ」  真山の細い眉がひくりと上がるのを見とるや、陶が鷹揚に微笑み、窓辺の卓子に置かれた丸い箱から黒布を取って中をのぞき込む。 「ほお、蟋蟀(コオロギ)かと思えば、これは、これは、大きな蜘蛛ではないか。蜘蛛には毒を含む種もありますな。そういえば、貴方の御母上は、確か毒でお亡くなりになったとか——」  真山の表情をちらりと見やり、陶が大仰に両手をひらいて見せる。 「誤解しないで頂きたい。私は御同情申し上げているのですよ。大龍頭(ダーロントウ)は指導者として優れた手腕の持ち主ではあるが、父親としては些か享楽が過ぎる。大勢の女たちが侍るハレムで育った貴方が、幼い頃から何を見、何を考えてきたのか。阿片に溺れる若過ぎる御母上をどうご覧になっていたのか。御察しするに余りある。貴方は表面的な美や享楽を軽蔑している。醜い親を憎み、その血を受け継ぐ己をも憎み、浄化の地を、あの柘尚人という男の中に見いだした」  陶が、ふう、と息をつき、硝子ごしに雨粒が激しく吹きつける真っ暗な戸外へ眼を向ける。 「確かにあの男。清浄な強い気魂を持っている。正反対の質に惹かれる貴方の気持ち、分からぬでもない。だが、その質に惹かれているのは、どうやら貴方だけではないらしい——」  陶が、真山の背後に回り、 「血——ですかな?」  耳許で囁き、すうっと部屋を出てゆく。  真山は、陶の息の掛かった耳を汚らわしげにハンカチで拭い、そのまま屑入れに投げ入れた。直後、激しく咳き込み、口を押さえて屈み込む。  咽を突き上げ溢れでた液は赤い色をしていて、その等しく穢れた血を溢れさせた狂女のしどけない唇が脳裏に浮かんだ。  十二歳しか違わぬ若い母は、実父の子を身籠った頃から狂いはじめ、自分を産み落したときには完全に正気を失っていたという。阿片の烟に霞む緋色の室で嬌声を上げながら実父と交わり、その濡れた躯をひらいて息子を招いた。息子は母の白い(かいな)に抱かれながら、小瓶に詰めた液を泥人形のような醜い微笑をたたえるしどけない唇へと注いだ。  真山は血に汚れた掌を握り、窓硝子を打つ夜の雨を睨んだ。 (柘、おまえに逢いたい——)
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