虫籠7

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虫籠7

(ヤン)は死んだよ」  (ほろ)を叩く激しい雨音の中、(ジェン)がぽつりと日本語で言った。 「しぶとい、いい男だった。あの師匠に責められても、最期まで口を割らなかった。だが、可愛がっていた鳩が案内したとは皮肉なもんだ」  蒋の口振りは、戦友を失ったように寂しげだった。  走行するトラックの荷台の左右に(つげ)(リュイ)はそれぞれ後ろ手に縛られ、向い合せに括られている。奥には蒋が、出入口の左右にはライフル銃を持った男が二人、やはり向い合せに立っている。  天井に吊られた洋燈が、それぞれの想いをのせた男たちの顔貌を光と陰とに染め分けて弄ぶように揺らしている。 「楊は——おれを連れ出したから」  柘が言うや、蒋がふんと鼻を鳴らす。 「行き先がはっきりしねえ奴は他にもいたが、特務の器はあいつしかいなかった。まあ、しょうがねえやな。それが奴の運命だったのさ」  低く言って蒋が黙る。柘は眼を閉じ、楊こと中村欣吾に黙祷を捧げた。中村欣吾の死が、またしても自分と関わった所為に思えて自責の念に狂いそうになるも、今は意識を留めているわけにはいかない。緑がいるのだ。  柘は気魄(きはく)を振り絞って眼を開けた。そして脇に立つ若い男の顔を見上げる。吊り上がった細い眼、残忍そうな薄い唇だけが赤い——忘れもしないオリガの咽を切り裂いたあの若い男だ。だとすれば緑の脇に立つ男も、おそらく紅布社に違いない。〝水海月(みずくらげ)〟の陽気な荒くれ者とはまるで違う血なまぐさい気に柘はそう推測し、うつむいたまま黙っている緑のずぶ濡れの白い貌を見つめた。かつての同僚——訓練を施された殺人のエキスパート二人を相手にこの状況では、いかに彼が優れていても反撃は不可能だ。 「黒獅子の蒋。おれを攫うのが目的なら、(リュイ)を逃がしてくれないか。頼む! 彼を逃がしてくれるなら、なんでもする。死ねというなら死んでもいい。だからッ」 「(にい)さん。地獄の果てまで一緒に行くのが駆け落ちもんってもんだぜ」 「おれたちは駆け落ち者ではない! 全部芝居だッ」    柘が声を上げると、蒋がくすりと笑う。 「そうかい。だが、おれから見れば、あんたら立派な駆け落ちもんだ。献身は潔いが、残される方の気持ちも考えてやんな」    蒋が自嘲的に言ったとき、後方から銃声がした。荷台が右左に大きく揺れ、脇に立つ男たちが身を屈めて幌の隙間から撃ち返す。  耳を劈く烈しい銃撃音の中、緑の脇にいた男が短い悲鳴を上げて荷台から転げ落ちる。 「不味いな……敵さん死に物狂いだ。まあ、アジトを吹っ飛ばされたんじゃ、無理もねえが……」  蒋が舌打ちして、ぼそりとつぶやく。 「やるか?」    緑に声を掛ける。 「特務のアジトを突き止めたのはおまえだ。騙されようが手引した事に変わりはねえ。捕まったら死刑だぞ。哥さんと生きて逃げたきゃ奴らを始末しろ」  蒋がライフル銃を持って腰を上げた直後、唇の赤い若い男が振り向きざまに天井を撃った。 「余計な事をするなッ! この女誑(おんなたら)しを始末したら任務は終わりだ」 「おいおい、忘れたのかい。文龍(ウェンロン)は怪我をさせずに連れて来いって言ったんだぜ。あんた、龍頭(ロントウ)に逆らう気か?」 「おれの主は文龍ではない!」 「蜻蛉(フーユー)ッ!」    声を上げた緑を、男が鼻で嘲笑う。 「安心しろ。きさまも一緒に殺してやる。師傅(シフゥ)が許しても、おれは許さん」 「へえ、二番手に落ちるのが、そんなに心配なわけ?」    (リュイ)が小首を傾げて、蜻蛉を見上げる。人を食ったような生意気な面つきは、いつもの緑だ。 「きさまが一番手だったのは、二年前の事。相も変わらず股を広げるしか脳のないきさまなんぞ、今のおれの相手ではない」 「なら堂々勝負したらどうだ」    柘は遮るように言った。 「腕に自信があるんだろう? それともできないか? 確かあんただったよな。無様に悲鳴を上げて逃げたのは。弱い女しか相手にできんような奴が、紅布社の一番手とは笑わせる」 「なんだとッ!」 「図星を指されて腹が立ったか。あの時と違って、おれは縛られている。チャンスだ。抵抗できない者を殺すのは得意だろう」    柘は嘲るように口端で笑ってやった。蜻蛉の顔が怒りに赤黒く染まる。ライフル銃を荷台に投げ捨てるや、黒っぽい戦闘服の腰から刃渡りの長い小刀子(ナイフ)を抜く。 「いいだろう。この淫乱を殺した後、望み通り、きさまを嬲り殺しにしてやる。目玉を抉られて吠え面かくなよ」  蜻蛉が凄まじい形相で指図し、蒋がやれやれと緑の腕縄を切り、取り上げた小刀子を返す。 「蜻蛉。ここで会えてよかったよ。あんたを殺してやるって(フェン)に約束したんだ。うっかり嘘つきになるところだった」  痺れを取るように右手をひと振りし、緑が揺れる荷台にふらつきもせずに立ち上がる。 「なんで蜂が出てくる?」 「さあ。あんた評判悪いから」  緑が小刀子を構えてにやっと笑い、蜻蛉の細い吊り目がさらに吊り上がる。直後、二つの小刀子が同時に煌めき、眼にも止まらず交差した。宙に突き出した蜻蛉の小刀子が、小さく震えて手から落ちる。背後から緑が、蜻蛉の咽に突き立てた小刀子を抜く。おびただしい血潮を噴き上げながら蜻蛉の躯がゆらりと傾ぎ、荷台にどうと突っ伏した。 「ほう」  魔のような一撃に蒋の口から感嘆の声が洩れるも、柘は声を出すことができなかった。紅布社にいながらも、緑だけは他の者とは違うのだと、当り前のように思っていたけれど、彼もまた軽々と人命を奪い、それに対してなんの感情も持っていないのだ。殺人に対して快楽を感じているとか、殺人行為を好んでいるというふうな残虐さがあるとは思わない。それは緑が発散する、冴えた明亮な気で推し量ることができる。けれども木の葉を払うがごとくの自然さで蜻蛉の咽に刃物を突き立て、それと同じ無感動な顔で無惨な死を見下ろす彼は正常ではない。  ——と、荷台が大きく揺れ、何かに激突して停まる。蒋が舌打ちしながら蜻蛉の亡骸を跨ぎ、影を揺らして柘の前を横切る。柘はそのゲートルを巻いた脚を蹴り飛ばし、倒れ込んだ蒋の首に脚を絡めて押さえ込んだ。 「逃げろ、緑ッ!」  柘は声を上げた。蒋の言った通り、今ここで捕まったら、緑は爆弾テロの実行犯として死刑を免れない。 「心配するな。全部殺す」  緑が落ちついた動作でライフル銃を拾い上げる。黙々と予備弾倉を装填する。 「駄目だ! 殺しちゃいけない、逃げるんだッ!」  間近で凄まじい爆裂音が轟き、幌の隙間から光が差す。 「どうやら……こっちの援軍が間に合ったようだぜ」  柘の脚に締めつけられながら、蒋が顔を引き歪めて低く笑う。 「緑、言うことをきけッ、早く行くんだ!」  柘に怒鳴られ、緑が困惑顔でライフル銃を捨てる。しゃがみ込んで柘の腕縄に取りつく。縄を切ろうと懸命にナイフを動かす。 「おれはいいから早く行けッ!」  柘は身を揉んで叫んだ。腕縄が落ちるのと同時に幌が撥ね上がる。サーチライトが視覚を奪う。 (河東機関か、紅布社か——)  いずれであっても、緑は渡さぬ。 「来い!」  柘は緑の手を鷲掴んだ。懐に抱くや白光の中へと飛びこんだ。
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