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 試験会場から歩き始めた時には濃い影を地面に落としていた太陽は、いつの間にか薄い雲に覆われていった。  蒸し暑さにふと顔を上げれば真っ黒い雲がその薄い雲を隠すように次々に湧いていく。みるみる垂れ込める暗雲に、昼間と思えないくらい辺りが暗くなるにつけ、やばい、と思った時には既に遅かった。  ぽつ、と鼻の頭に雫が当たり、続いて腕に落ち、不意にぱらぱらと、目ではっきり捉えられる大きさの雨粒が降って来た。  傘もなく、雨宿りできそうな場所も見当たらず、春斗は反射的に駆け出した。  よりによって店もガソリンスタンドすらも無く、コンビニは十分位前に通り過ぎた。人の家の門を開けてまで軒端を借りる勇気もない。曲がり角まで走ってみたものの、風景は何一つ変わらないことが分かっただけだった。  息を軽く弾ませた春斗は、潔く諦めて立ち止まった。雨脚は強く、降り始めて五分ほどしか経っていないのに、バケツの水をかぶったような有様で、着ているTシャツもデニムも最早どうしようもなかった。走った先に何があるわけでもないのだから無駄なことをするのはやめる。  ずぶ濡れのままとぼとぼ歩く春斗の横を、何事もないように車は通り過ぎ、そのたびに雨の雫や泥が跳ね飛んできて、一層惨めな気持ちになっていった。 ――それなら、俺とつきあってください。葵さんのことが、ずっと前から好きなんです。  誰にも気付かれてはいけないと奥深くに仕舞い込んで厳重に鍵をかけていたはずなのに、まるで薄皮をめくるようにいとも簡単に露わにしてしまった。  発した言葉は二度と戻らない。  口にした後、驚いたように目を見開いた葵は、すぐにいつもの微笑みを浮かべて「ありがとう」と言った。  嘲笑するでもなく混ぜっ返すでもなく、そのままを受け止めて、我に返って蒼白になっていた春斗を気遣うように雑談を続けた。  春斗はそこからの記憶が無くなっていて、葵がなんの話をしていたのかも自分がどう返したのかも覚えておらず、気が付けば手にしていたはずのアイスの棒が回収され、「おやすみ」という葵の言葉と部屋のスライドドアが閉まる音を聞いたのが最後だった。  そして机の上に突っ伏した状態で朝を迎えた。  はあ、と大きく息を吐いた。  心ここにあらずで試験を受けに来たことも、天気予報を確認せず傘を忘れたことも、帰りのバスの時刻を調べていなかったことも失敗だった。この後帰宅して、葵にどんな顔をすればいいのか、考えるとまた胃が重く痛み出す。  雨はますますひどくなり、びしょ濡れの春斗はすっかり体温を奪われて、夏だというのに指先の感覚が無くなっていた。  駅への方向を再度確かめようにも、雨が激しすぎてスマホを取り出せない。  その時、誰かが自分の名前を呼んだ。  春斗は立ち止まって、けぶる視界に目を細めた。 「ハル!」  声のする方へ顔を向けると、見慣れたミニバンがウィンカーを左に出して止まっていた。
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