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「私をどこに連れて行くんだ」
老婆には私の声が聞こえないようです。
「おい、お前は何をした?」
私の横に並んだ男は点滴を両手に射していました。足を引き摺り歩くたびにサンダルが床を擦る音がします。
「何をしたとはどういう事だ?」
男は笑って立ち止まりました。点滴の針を抜いてボリボリと掻いています。皮がパラパラと床に落ちました。皮は隙間風にヒラヒラと飛んで行きました。ダイヤモンドダストのように廊下の先できらめいています。突き当りの部屋に入りました。軽い段差で唇を噛んでしまいました。唇から流れる血を老婆が吸い取っています。止めろと叫んでも声になりません。ガラス張りの向こうに月が出ています。海には小舟が浮いていました。
「ああっ」
あの絵です。『月光と船』その絵通りの景色が広がっています。
「8万円じゃ安いでしょ」
老婆が言いました。
「お前は誰だ?」
「私ですよ、忘れましたか」
老婆は白髪を上げて顔を近付けました。あの女でした。するとあの院長は誰なんだ。
「院長とお前の関係はなんだ?」
「私の娘ですよ、あなたにボロボロにされた私の復讐をしてくれているんですよ。この本館にいる患者はみな私を騙した男ですよ」
「私は騙してなんかいない」
「男はみんなそう言うんですよ。さあ夜は長いですよ」
女が出てドアを閉めると灯は月光だけでした。生きているのも煩わしくなりました。
「おおい、おおい」
力の限り叫びました。女がドアを開けました。
「私が悪かった。車椅子のブレーキを解除して欲しい」
女はブレーキを解除しました。
「押してくれ」
女はハンドルを握って押し出しました。水勾配でしょうか緩やかな傾斜になっています。月光と舟に向けて私の車椅子がゆっくりと進んで行きます。女が手を放しました。私はこの大嫌いな薄暗い絵の中に嵌り込むのでしょうか。女とコミュニケーションが取れない私は結果として独身貴族を貫いた。人に問われれば女は煩わしいと恰好付けていました。それが加齢とともに、病と言う証拠を突き付けれれて剥がれ落ちたのです。今初めて思います。
「永遠の伴侶が欲しかった。最後までグリップを握っていてくれる妻が欲しかった」
落ちる刹那新館の院長室の窓が見えました。院長が海を見ていました。
了
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