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蠱惑Ⅱ『俗塵』
私が生涯独り身でいいと決めたのは不惑を迎えた頃です。それまでは結婚願望もありました。20代の半ばから友人や同僚が次々に結婚していきました。焦りを感じていた時期もあります。大勢でいれば会話も進むんですが女と二人きりになると全く会話が出来ませんでした。好きな食べ物は?好きな映画は?好きな音楽は?そんな箇条書きを読んでいるような私に飽きてしまうのも当然でしょう。私に縁がないと言えばそれまでですが、お付き合いしたこともあります。30歳の時に大恋愛をしました。大恋愛と言うのは私の方だけで、相手にそれが通じていたかどうかは疑問です。相手は7歳も年上でした。ですが彼女といると実に楽しかった。ずっと一緒にいたくなる、そんな女でした。絵が好きな女でよく絵画展に出掛けました。私に絵心はありませんでした。
「ねえねえ、これどう?」
彼女の知人の個展での時です。タイトルが『月光と舟』画面いっぱい薄暗くて、海の上に月が出て、小舟が浮いている絵のどこがいいのか私にはさっぱり分かりませんでした。
「タッチがいいねえ」
顎に指を当て知ったかぶりも板につきました。
「どうですか?」
作家が私達の前に来ました。値段を見ると8万円です。この絵に8万出すなら二人で旅行に行けると思いました。
「ねえ、どう、あなたのリビングに?」
女は本気でした。彼女は私のアパートに来たことがありません。この時は肉体関係もありませんでした。ぼちぼちそんな関係になるかもしれないと感じていた頃です。
「どうかなあ、少し暗いような気がするけど」
私は一間のアパート暮らしでした。女が本気ならマンションに引っ越すつもりです。いい物件があり、不動産に唾を付けてあります。今夜肉体関係になればすぐにでも契約するつもりでした。
「あら、素敵よこれ、将来値も付く筈よ。鑑賞しながら蓄財にもなるわ」
女はその絵がえらく気に入ったようです。
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