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「彼は生涯独身を通した男、独身貴族の模範。みんなから羨ましがられていたんだ」
「おいおい、もう昔の話だよ」
私は恥ずかしくなりました。友人の誉め言葉は鉄槌を脳天に打ち込まれたようでした。
「あら、独身でいられたんですか、それで腰の湿布も上手く貼れなかったんですね」
若いインストラクターが笑った。友人も友人の夫人も笑っている。女といる事の煩わしさが嫌で結婚はしないと粋がっていましたが、それは結果有きの単なる結論でしかありません。友人と対面して思うのは、私も結婚して共に助け合い、迎える死を尊重したかった。車椅子のハンドルを握るのは愛する人であって欲しい。
そして手術の日がやって来ました。
「執刀は院長先生自ら行うそうです。その前に問診を兼ねた顔合わせをしたいそうです」
私は院長室に連れて行かれました。院長室は海に面していました。夕日が落ちる真正面です。そして驚いたのはあの絵が壁に掛かっていたのです。30年前に私の独りよがりで大恋愛と位置付けた女に買って上げた絵です。確かタイトルは『月光と舟』だったと記憶しています。どうしてあの絵がこの部屋に飾られいるのでしょうか。
「院長先生、お連れしました。午後手術される患者さんです」
若い看護師が回転椅子の白髪頭に声を掛けた。海を見ていた白髪頭が椅子を回転して笑った。
「初めまして、当院の院長をしています」
あの女でした。あの絵を出汁に肉体関係を結んだあの女が笑っています。私に気付いているのでしょうか。初めましてと挨拶したのだから気付いていないのでしょうか。
「何か心配しているのですか?顔色が宜しくないですよ。何も心配はいりません、こう見えて百戦錬磨、この手術には自信があります。術後2週間すれば痛みは取れてリハビリで歩けるようになりますよ。散歩でもご旅行でも自由にどうぞ」
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