序章

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序章

 少年は命の危機に瀕していた。兵士が使うような剣のそれとは違う得体の知れない黒い刃を首筋に突き立てられてから5秒ほど経ち、少年――ティシル・オリバートの顔を冷えた汗が伝う。ティシルはそれを自覚しながらも、精一杯の闘志を燃やしながら相対する酷薄な瞳の女を睨みつける。 「威勢がいいな、何もできないというのに」  嫌でも目につく、女の背から迸る白い光。淡い燐光を散らして音もなく燃え盛り、端然と輝く、翼と表現するのが一番相応しい光に見惚れる余裕など今はない。縋り付くようにティシルの腕を掴んだ彼の父親は、震え声を上げる。 「お前が……天使……?」 「ああ。……我々は神の意志に従い醜き劣等種を滅ぼす天よりの使者」  天使。翼のような光を背負う者に対する的確な表現であろう。そういう存在がいるということが常識となってから久しいが、田舎に住んでいる彼にとっては初めて見る存在だった。父親は獣と遭遇した際の恐怖とは比べ物にならない恐怖に慄き目を閉じて頭を抱える。親として子を守るという美徳を放棄した父を責める余裕も、今のティシルには無かった。彼はただこの状況をどう切り抜けるかという一点を議題に脳の裏で思考を張り巡らせる。武器も何もないが、生存を諦めるという選択肢は端から存在しなかった。 「……誰、か……助けて……!」 「ふん、無様だな。どうせ助けなど来ないのだ、遊んでやろう。お前の四肢を一つずつ切り落とす。お前も、父親も、どんな悲鳴を聞かせてくれるんだろうな……がっ!?」 「――弱い犬ほど、よく吠える」  女が下衆な笑みを浮かべ、言葉を実行しようと武器を持ち直したその直後、日常ではおおよそ耳にする機会は無いであろう、鈍い音が響く。それを噛み砕く間もなく、ティシルの身に鮮やかな紅が振りかかる。――女の返り血であった。女の腹に刺さった赤い刃が引き抜かれると女はいとも容易く崩れ落ちる。父の錯乱の声も今は耳に入らず、ティシルは女の背後――濡羽色の髪を一つにまとめた少女の目を見据える。年齢は十五、六くらいだろうか。十二の自分より少しだけ背の高い、青い瞳の少女。それは崩れ落ちた女のものと並べ立てても決して劣らないほどに、冷酷だった。 「あ……えっと、ありがとう……ございます……?」 「……」  自分達を殺そうとした天使を殺したということは、この少女は味方なのだろうか。そう判断し、熱いものに恐る恐る触れるように感謝の意を述べる。が、少女はティシルに視線を寄越すことなく、もう一度女の身体に刃を突き刺し、悲鳴が上がらない、つまり明確な死を確認してから別の方向へと駆けていった。 「あ、ちょっと!」 「もう、リルったらまた民間人を放置して……」 「え?」  少女の後ろ姿に投げかけた言葉に続いて、聴いた者の心を落ち着かせるような涼やかで優しげな声が響く。声の方向を見れば、胸までの長さの薄い茶髪の少女。年齢は先ほどの少女より少しだけ年上に見える。 「大丈夫? 怪我は?」  少女は息絶えた女の亡骸を無視して、血塗れのティシルとその背後で恐慌状態に陥っているティシルの父親に心配の色を含んだ声をかける。 「怪我は……大丈夫です。ただちょっと、父さんが……」 「助けて……助けて……」 「ふむ……君が落ち着き過ぎているだけで、これがある意味正常な反応とも言えるけど。……ひとまず安全な場所に案内するね。まだ天使の残党がいる。また襲われる前に地下に避難しよう」 「さっきの人は大丈夫なんですか?」 「彼女のことは気にしないで。あの子は強いから、一人でも大丈夫。……親御さんをお願いできる? 私は()()を持っていくから」  生命の危機の後に人の身体が貫かれる様を見て限界が訪れたのか、父親はひたすら壊れたように言葉を繰り返していた。たしかに、人間としてはこの反応が正しいのかもしれないとティシルは内心考える。父さん、しっかりしてと気休め程度に声をかけつつ身体を抱き起こす。少女はと言うと、既に物言わぬ肉塊と化した女の身体を至極冷静に両腕で抱える。 「……弔うんですか?」 「まさか。人類の敵を弔ってあげるほど私達は親切じゃないよ。規則だから持って帰るだけ」 「規則?」 「うん? ……ああ、その様子や身なりを見るに、よそから来た人かな? 来て早々天使が来るなんて災難だったね。私は……というか、さっきの女の子含めた私達は、永遠の深淵(エーヴィヒカイト・アブグルンド)。人類の敵、天使を狩る組織の一員なんだ」 「永遠の深淵……あ、もしかして! 貴方達が、あの?」 「そう。……教会からは神の意志に逆らう叛徒として悪者扱いされているけど、私達は純粋に人々を救いたいと思って天使を狩ってるの。これからここディアスクラードに住むんだったら、そこは覚えていて欲しいな。……私はエリスレーデ・ランティス。というわけで、これからよろしくね!」  赤い肉塊を抱えながら、少女――エリスレーデは屈託のない笑顔を浮かべた。
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