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瀬南の贖罪
「瀬南(せな)大丈夫か」
遠くで声がする。
泉の底で待っていた誰かだろうか。
誰かが私の手をつかむ。
その誰かが私の体を抱き起こし、ギュッと抱きしめる。
「瀬南、それは夢だから」
そうだ。これは夢だ。
私はゆっくりと深呼吸をする。
よかった。息が、できる。
そうだ。
私は、私は、
私は瀬南だ。
山崎柊二の妻の山崎瀬南だ。
半分はまだ夢の世界にいる意識は次第に覚醒していく。
優しい夫と出会い、今こうして幸せに暮らしている。そしてここは日本だ。
この私を抱きしめている人がそばにいてくれる。
私はゆっくり瞳を開く。
「またあの怖い夢を見たのか」
夫の柊二が言う。
ベッドの上で半身を起こされて、抱きしめられていた。
ホッとしながら私は「うん」と、幼い子どものように答える。
だけど私を知っている。
あの時私が選んだ兄こそが、この夫だと言うことを。
「また夢で、古い時代の巫女になって、俺のことを生贄に指名したんだろ」
本人なのに柊二はまるで笑い話のようにそう言うと、屈託のない笑顔になる。
いいえ、違う。柊二がかつての私に選ばれた本人なはずはない。だってあれは私の夢だから。
もしあの夢が前世で本当に起きたことだとしても、そもそも証明する手立てはない。
証拠があるとすれば、子どもの頃から何度も繰り返し見ていた、あの悪夢に出てきた兄によく似た人に出会ったこと。それが夫になったこと。
それだけだ。
初めて大学の学食で柊二と出会った時、私は文字通り息が止まった。
柊二の顔も骨格も雰囲気も、屈託なく笑う時に目の横に走る皺も、何もかもが夢に出てきた兄の顔に驚くほど似ていたから。
そして、初めて会った時から彼の存在が、強烈に私の中に突き刺さったのだ。
人にそう話せば、「それは一目惚れというのよ」と笑われてしまう。だけど違うのだ。
ただわかったのだ。
この人は、あの時の兄なのだと。
初めて二人で旅行した夜に、またあの悪夢を見た。真夜中にうなされた私は柊二に起こされた。抱きしめられながら私は混乱して、泣きながら夢の中身を話してしまった。初めて会った時に、柊二が、夢に出てくる時の兄にそっくりで驚いたことも。
嫌われるかもしれない。でも真実を伝えて謝りたかった。
夢の話を聞いて柊二は驚いていたけれど、すぐに強く私を抱きしめてくれた。
「たとえそれが真実だったとしても、瀬南に罪は無いよ。まだ子どもだったんだし、何もわからなかったんだろう。それに」
私の両肩に手を置いて、身体をゆっくり離して顔をじっと見た。
「おれは瀬南の兄じゃない。大学の先輩で、山崎柊二だ」
「うん」
涙がポロポロ溢れる。
「訳がわからないことを言ってごめんね。夢の話なのに、真剣に聞いてくれてありがとう」
柊二は瞳をみつめたまま、右手で頭に撫でてくれた。本当のお兄ちゃんみたいだ。
「怖い夢なんてもう忘れろよ。実際に俺は生贄になんて指名されていないんだから」と笑う。
うん、と泣きながら頷くと
「ほら、ここにこうして生きている」
ともう一度抱きしめてくれる。
「その夢が昔に本当にあった事だったとしても、もう終わったことだ。気にするな」
私は柊二にしがみついて泣いた。
そうだ。私はこの人から、そんな言葉が欲しかったのだ。
なぜ繰り返しあんな夢を見たのか。
これはあの時自分にかけた呪いなのか。
それとも誰かが私にかけた呪いなのか。
だけど今こうして出会ったこと。
そのことにこそ意味があるのだ。
もしかしたらあの夢は、二人が運命の出会いをすることを私に伝えるための予知夢のようなものかもしれない。
私はそう考えることにした。
あれからも幾度となく夢を見た。
だけど柊二はいつも優しく抱きしめてくれる。
それだけで私は幸せになれる。
もしもあの時の兄が今の夫であるならば、私は生涯かけて彼を幸せにする。
それが私の唯一できる贖罪だと思うから。
悪夢から目覚めるたびに心からそう思うのだった。
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