黒田さんは笑う

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
『みんな、騙されたって怒らないでね。』 それが、クラスで一番の人気者の彼女が最期に遺した言葉だった。 肌寒い月曜日のこと、担任が青ざめた顔で教室の中に入ってきた。でも、みんなそんなこと気に留めなかった。 隣の席の女子が、前の席に座る女子と彼女の不在について喋っていたことの方が僕の耳によく入った。 「みなさん、すごく、残念な、悲しいお知らせがあります。」 担任は言葉がうまく紡げないのか、途切れ途切れになりながら口を動かす。落ち着きがない態度に、ようやくクラスメイトは違和感に気が付く。 教室の中がだんだんと静かになって、その静けさに担任は逆に口を開けなくなっていた。 真面目だと揶揄われるほど真面目な学級委員長が痺れを切らして、担任を急かす。 「なにがあったんですか?」 「・・・・・・みなさんの、大事なクラスメイトの、黒田春さんがお亡くなりになりました。」 誰かが息を呑んだ音が聞こえた。その誰かは一瞬で事を理解できたらしいが、そんな人はほとんどいなかった。 斜め前の席の男子が、なに言ってんだ、と言いたげに薄ら笑いを浮かべた。 「先生、そういう冗談よくないですよ。だって、私、昨日、春ちゃんと遊びに行ったんです。元気そうだったし、何なら夜まで連絡してたのに、そんなわけないじゃないですか。」 立ち上がって、幼い子どもを落ち着かせようとするような口調で、女子が言う。彼女は、黒田さんと一番仲がよかったと思う。いつも黒田さんの隣にいて、楽しそうに笑っていた。 「そんな不謹慎な冗談、言うと思いますか?」 担任の言葉で、全員が緩んだ口角を引き締めた。 穏やかでどこか頼りない、けれども慕われている彼が、大人のような声色で他の意見を寄せ付けないような口調で言い放ったからだ。 しばらくの沈黙が教室を包む。誰も、なにも言えなかった。 結局、頭では理解できていなかったのだと思う。僕も同じだった。 「事故、ですか?車に轢かれちゃった、とか?」 どこからかそんな声が聞こえた。その後に鼻をすする音が聞こえた。 担任はしばらくその質問に答えなかった。ゆっくりと瞬きを繰り返して、深呼吸を二回した後、口を開いた。 「自殺です。」 頭を殴られたような衝撃が僕を襲う。その言葉は、僕にとって身近なものではなかった。 人が死ぬことでさえ慣れていない僕に、その三文字は重すぎるものだった。 隣の席の女子が、肩を震わせる。 どこかから泣き声が聞こえて、それが教室中に伝染していく。 ほとんどのクラスメイトが泣いていた。涙は流さない人も、心ここに在らずの表情をしていた。その存在がなくなってしまうことに全員がとてつもない衝撃を受けるほど、黒田春は僕らにとってとても大切な存在だった。 サラサラの黒髪からはいつもいい匂いがした。すれ違った時、彼女だとすぐに分かる香りに思わず足を止めてしまうほどだ。 小さな顔には大きいように見える眼鏡はいつだって少しずれていた。 柔らかい笑顔に腰が低い態度。誰に対しても変わらない優しさと丁寧さは、あっという間に僕らの心を掴んだ。 謙虚で聞き上手で、男女関係なく、彼女にはなんでも話してしまう。好きなものや誕生日はもちろん、些細な言動を覚えていてくれているから、彼女に嫌悪感を持つ者はいなかったはずだ。 僕もライクの感情は抱いていた。中学校時代の失敗を彼女にポロッと零してしまったことも何度かある。僕の友人はたしか、彼女に恋をしていたと思う。 彼女の笑顔はいつだって崩れなかったし、努力も惜しまない彼女の姿はみんなに愛されていた。 幸せ、と言うように彼女は楽しそうに頬を緩めていた。だから、自殺とは無縁の人間のはずなのに。 どうして、どうしてだろう。考えても考えても思い当たることは何一つない。 泣き声や整うことのない荒い呼吸音が、響いている。 他の教室やグラウンドからは楽しそうな声が聞こえてくるのに。ここだけは重苦しい雰囲気を纏っている。 「実は、黒田さんの遺書があります。みなさんへのメッセージもあるということで、ご家族から頂きました。コピーをとったので、みなさんに配ります。心が落ち着いた時に、読んでください。」 担任の声は震えていた。 言葉を発する生徒は誰もいなかった。 クラスメイトが一人亡くなった。いつも楽しそうで幸せそうな人気者が、自殺した。 自殺した。 唾を飲み込む。心臓が動いている様子がいつもより鮮明に分かる。 僕は生きている。 担任から五枚の紙を受け取る。彼の大きな目には水の膜が張っていた。唇を噛んでまで涙を堪える担任から目を逸らす。唇に血が滲んでいた。 黒田さんの文字は丸っこかった。あの細い指で、彼女はどんな言葉を綴ったのだろうか。 僕は深呼吸をしてから、目を通す。 紙を持つ手が小刻みに震えていた。知らぬ間に開いた口からどんどんと息が吐き出されていく。 グラウンドから楽しそうな叫び声が聞こえた。 何の時間かを告げるチャイムが鳴り響く。 何時なのかを確認しようと顔を上げると、視界が歪んでいることに気が付いた。 制服の袖で目の辺りを擦る。辺りを見回すと、みんな、泣いていた。 学級委員長も黒田さんの一番の友人も斜め前の席の男子も隣の席の女子も、黒田さんに恋した僕の友人も担任も。 廊下に他のクラスの生徒が現れる。僕らのことなんて眼中にない彼らは笑っている。無邪気に、高校生らしく。 この前まで、僕らもあんな感じだったはずだ。その中心にはいつも黒田さんがいた。けれど、黒田さんはいなくなってしまった。理由はすべて遺書に綴られていた。 中学生の黒田さんはいじめられ、学校に行けなくなっていた。すべてをリセットするために、家からそれなりに離れていて同級生は誰も行かない、この高校に進むことを決めた。入学式の日、嫌われないために愛想を振りまいた。すると、それなりの人に好意を抱いてもらえた。その人達の期待に応えようと、その人達が望む黒田春でいようとするたび、黒田さんは自分を見失った。もう取り返しがつかないところまで来ていた。笑顔を作るたび、誰かに笑いかけてもらうたび、虚無感と孤独感に苛まれていく。一人の時に感じる孤独より、誰かといる時に感じる孤独の方が辛いと黒田さんは気が付いた。もう固まり始めた気持ちを止められなかった。だから、死ぬことにした。 『みんな、騙されたって怒らないでね。』 最後に綴られた言葉が、僕の心を抉った。 つまり、僕らは黒田さんを囲っておきながら、黒田さんのことを全く見ていなかったのだ。 なんて愚か者なのだろう。 考えてみれば、僕らは黒田さんに僕らの話を聞いてもらいながら、黒田さんの話を聞くことは全くなかった。 僕は彼女の誕生日も過去のエピソードも好きなものも知らない。 黒田春は何者なんだ。そう思うことは、今の今まで無かった。 僕らは騙されたんじゃない。黒田さんが騙したわけでもない。 ただ、僕らは自分のことしか見ていなかった。どちらが悪いのかと問われれば、僕らの方が悪い。 一方的な気持ちを押し付けておいて、彼女の思いを慮ったことはないのだから。 黒田さんはいつだって笑顔だった。だから、いつも楽しそうだと思った。幸せなんだろうな、と思った。 彼女がそう言ったわけではないのに、そうだと決めつけた。 「ごめんなさい。」 無意識のうちに声に出ていた。 隣の席の女子がちらりと僕を見て、また涙を流し始める。 黒田さんは自殺したんじゃない。僕らに殺されたんだ。 そう捉えられても仕方のないことを僕らはした。 愚かだ。僕らはどうしようもなく愚かで、幼かった。だから、他の人を受け入れるために自分を押し殺してまで余裕を作っていた黒田さんに押しかけた。 とめどなく溢れてくる謝罪の意を口に出しても、それに苦しめられても、彼女はもう戻ってこない。 永遠に埋まらない空席が一つ、できてしまった。 チャイムが鳴る。 まぶたを下ろすと、涙が頬を伝う。真っ暗な世界に浮かぶ黒田さんは、やっぱり笑っていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!