ここで私は...

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ぽかんと浮かんだ白い月がちょうど雲の切れ間に見えている。風なんて感じないのに、上空では風があるのか、薄く広げた綿のような雲がときどきかかり、月が見えなくなった。月の輪郭が見えなくなり、また出てこないかなー、と思ったところで薄い雲がまた流れ、白い月が顔を出した。隠れては姿を現しを繰り返し、それを飽きずに見ていたらいつの間にか30分が過ぎた。 「寒くないの?」  そう聞かれて、寒い、と言いたかったが、そう言うとみんなのところに戻ろう、となることが分かっていたので「大丈夫」と答えた。 「月明かりって意外と明るいものだね。普段は気付かないけどさ」 「うん」  しゃべらずにいてもいいのに、彼は気を使って無言を避けている。私を振ったことなど気にしなくてもいいのに。 30分前に私は彼に想いを打ち明けた。異性として彼を見ています、というもので、他のみんなとは違う特別な気持ちがあることを一方的に伝えた。なんでそんなこと言っちゃったんだろう。私には別の誰かがいるはずなのに。 「困っちゃったな。ちえみちゃんのことは妹みたいだと思っていたのに」  分かっていた。異性として見てくれることがないことも、彼には好きな人がいることも。その好きな人に彼が気持ちを打ち明けられずにいることも。 「なんでも今までどおりに相談にも乗るし、連絡してくれて構わないよ。でもちえみちゃんのことは、女の人としては見れないんだ。きつく聞こえてたらごめんね。でもいい兄貴としてこれからも仲良くしていきたい。分かってくれる?」  そこから30分ずっと空を見ていた。 ニューヨークの郊外で、星は一つも見えない雲の多い夜だった。彼の通う大学のキャンパスのカフェテリアでは学生達のハロウィーンパーティーをやっていた。私はそこの学生ではないが、彼が高校生の私を大学の雰囲気を見せるいいチャンスだからと言って誘ってもらっていた。 エントランスの前の階段で二人で腰掛けて、その横にはウィッチに扮した私の黒いトンガリ帽子が転がっている。彼はドラキュラで、髪をオールバックに撫で付けて、さっきまでつけていた鋭い牙は手のひらに納まっていた。二人とも黒いマントをつけていて、そのマントに包まるようにしてじっと寒さにこらえながら動けずにいた。 半年ほど前にアメリカに移って来てからというもの、小さなボートが太平洋のど真ん中で迷子にでもなってしまったような夜を何度も過ごした。迷子になっても、空も海も真っ暗でどっちにも動けない。前も後ろも分からずに、漕いでも漕いでも陸は見えずに、誰か仲間を探すしかなかった。どこからか現れたのかこちらより少し大きめのボートが近寄ってきた。そこには同じような気持ちを抱えている人も乗っていたし、目的地がはっきりと分かっている人もいたし、何かを成し遂げて満足げの人もいた。少し大きめのボートに乗り移り、スイスイと進むボートの上で同じ境遇の仲間達と触れ合い、人恋しさを初めて知って、話せる人がいることのありがたさが身にしみた。 このニューヨークで留学生をサポートするボランティア団体があることを知ってから、私の生活は一変した。表情も明るくなったからだろうか、通っていた現地高校でも友人が出来て、ホームステイ先でもすっかり家族の一員のように可愛がられるようになった。でもどうせ、それは一時期のものでしかない。私は「ずっと」にはなれないのだ。 「ずっと」じゃないから、急いで楽しもうとする。「ずっと」じゃないから、思い出を作ろうとする。少し大きめのボートに乗り換えて一人じゃなくなったことを喜んでいたのに、 「わたしだけの何か」を次には求めるようになっていた。そしてそれが「ずっと」に続くものになればいい。ここにいる間だけでもいいから、ずっと私だけの何かであってくれれば・・・と。   「さ、もう戻ろう」  彼は、立ち上がりながらマントを払った。それから、まだ体育座りをしている私の腕を掴んで立たせると、やっぱり同じようにわずかについた砂を払ってくれた。  立ち上がると、高く感じていた彼の背はさほど差があるものではなかったと気が付いた。  好きだったのだろうか・・・と告白したばかりだというのに思う。彼の答えはまっとう過ぎて、誰だってあの答えを聞けば納得してしまうだろう。でも彼に戸惑って欲しかった。それから、彼自身のことも打ち明けて欲しかった。なぜ彼が私を女として見ないのか。他に誰が心の中にいるのか。そして、どうしてそこまで叶わない一人のことを思えるのか。  彼の好きな人は、彼の親友と付き合っている。ベストカップルと言われるような二人だ。彼と彼の親友は同時に彼女のことが好きになったようだけど、彼の親友の方が彼よりも早く結論を出しただけのことだ。彼女としては、きっとどちらが告白しても答えは同じで、例え彼女と付き合うことが彼の方だったとしても、同じように皆にベストカップルだと思われたかもしれない。ちょっとしたタイミングが全く違う結果を呼ぶ。  私の腕を掴んだ彼の手が離れると、初めてホームシックに苦しむ予感がした。日本を離れてまだ半年も経っていない。半年も経っていないのに、日本にあるはずの私の拠り所は夏を境にぷつりと糸が切れてしまっていた。  待っても待っても、来るはずの手紙がこない。自分が出した手紙の内容が悪かったんじゃないかと思っても、下書きがあるわけじゃなかったし、手元には私宛になっている日本からの手紙だけが残っている。書きなれていないくせにわざわざ筆記体で書かれた名前と住所。封筒の消印を見て二人で立てたルールが守られているか確認した。手紙が着いたら、すぐに返事を書いて出す。一年くらい続けられると思っていたのに、半年ももたなかった。 私はもう次の追いかけるものを見つけようとしていた。それが彼だった。 追いかけるものを失くしてしまった今、悲しくないはずなのに、急に泣きたくなった。この国に来てまだ泣いたことがない。泣きそうになったことは何度もあった。だけど、泣いたらおしまいだ、とどこかで思っていた。泣いてしまったら、孤独感に押しつぶされて死んでしまうかもしれない。そのくらいに思っていた。  彼は転がっていたトンガリ帽子を取って、私の頭に乗せてくれた。 「そういえば日本にいたボーイフレンドはどうしたの? いたよね。文通してるって同級生」 「もういないもの」 「遠距離ってだけでしょ。ちえみちゃんの帰り待ってるんじゃないのかなぁ」 「フェイドアウトしちゃったみたいなの」 「ちえみちゃん、弱いところ見せなさそうだもんね。そのボーイフレンドに対してもそうだったんじゃないの? もう少し素直になればきっと・・」  そういいながら、彼は慰めるように私の肩に手をかけた。 「分かったこと言わないで!」  言いかけた彼を遮って、私は彼のジャケットのポケットから車のキーを奪うと、パーキングの彼の車に向かって走っていった。  彼が被せてくれたトンガリ帽子は脱げて飛んでいった。マントだけが翻っていた。後からドラキュラが同じようにマントを翻して追っかけてくる。陸上部の短距離選手だった私は、普通の女の子なんかよりずっと足が速い。ドラキュラでもなかなか追いつけない。歩道を走りぬけ、パーキングに続く階段を二段飛ばしで駆け下りていった。  私は今日の夕方助手席に乗っていた小さなエンジのスポーツカーの運転席に座り、キーを差し込んだ。エンジンをかけ、サイドブレーキを下ろした。何をしようとしているのか自分でも分からなかった。この車で日本に行けるはずもないのに。 「ちえみちゃん!」  ギアをDのところに入れる前に、ドラキュラが追いついた。運転席側のドアを開け、ハンドルにかけられている私の手を膝の上に置かせてサイドブレーキを上げると、私に助手席に移るように促し、自分は運転席に座った。少しの間二人の息を整える音だけが車の中を充満した。 「運転できたっけ? まずはライトつけなくちゃね」 「そうだった」  彼は車のヒーターをつけてその前に手をかざして温まった手で私の手を包んでくれた。小さな車内はすぐに暖かくなって、フロントガラスが少し曇った。 「さっき私が、男の人として見てるって言った時どう思った?」  手を包まれたまま彼の目を見て尋ねた。 「さっき言ったとおりだよ。答えは変らない」 「困るってやつ?」 「今は大事な人はいらないんだ。ごめんね。分かんないでしょ、そういうの」 「分かんない」  彼は苦笑すると、バックシートにあるバックパックの中から本を出した。 「大人になったらさ、これ読んでみなよ。先月日本に一時帰国したときに買ってきたんだ。もう読んじゃったから貸してあげる」 「大人になったら、なんて言ったらいつ返せるか分からないよ」 「無期限でいいよ。ちえみちゃんとはずっと付き合っていくつもりなんだから」 「そんなこと言われてもあまり嬉しくない」 「恋人同士になるのが全てじゃないよ。ほんとにそう思う」  彼なりに何かがあったんだと受け取れるような言葉だった。 「独占したくないの?」 「独占したくなる相手は今はいらない。いつか出来るかもしれないけど、今はそういう時じゃない」 「どういう時なの?」 「吸収する時かな」 「分からない」  彼は参ったな~、と言いながらカーラジオを付けた。最近良く流れるヒットソングが流れて英語のDJの声とかぶさる。彼はそれを口笛でなぞる。 「牙はどうしたの?」  私は自分の八重歯の辺りを指差して彼に言った。 「あ、そうだ。どうしたっけな・・・。ちえみちゃんを追っかけたときにどっかに落としたかな。・・・これじゃ怖くないでしょ」  彼は口をイーの形に開いて見せた。歯並びのいい白い歯が覗くだけだった。 「そんなんじゃ血、吸えないね」  笑ってそういうと、彼は私の肩を鷲摑みにして首筋に歯を立てるフリをした。くすぐったくて私は更に笑いながら、体をよじった。 「ほんとに噛まないでよ! 偽せドラキュラ!」  意外に重い彼の体重を向こうに押しやると、彼がふざけるのをやめて顔を上げた。車を停めた脇にある蛍光灯の明かりの下で、彼の顔に長い睫毛の影が映って、日本人としては彫りの深い顔がデフォルメされていた。きれいだな・・と純粋に思って、自分から彼の唇にキスをした。膝に置いていた彼が貸してくれた本が足に落ちたが、構わず彼の背中に手を回した。5秒くらい唇を合わせたままにしていたけど、彼は目も閉じずじっとしているだけだった。ゆっくりと顔を離すと、ポンポンと私の頭を撫でて、「ちょっと走ろう」と言ってから車を出した。カーラジオの曲はバラードに変わり、スポーツカーは無人のパーキングを滑らかに進んで公道に出た。  空を見上げると、雲の合間から月が姿を現したところで、ずっと私達を追って来ていた。 「ね、月って一個なのよね。どの国から見ても月って同じ月?」 「先生に聞いてみないと分からないけど確かそうだったと思う」  彼はおどけてそう言った。 「そういえば、昼でも月って見えるよね」  つぶやくように言ったけど、彼にはちゃんと聞こえていた。 「多分同じこと誰かさんが思ってるよ」 「泣いてもいいかな」 「後ろにクリネックスがあるよ」  後部座席に転がっていたボックスティッシューを膝に抱え、この国に来て初めて泣いた。一人じゃなくて良かったと思った。涙を見られるのはイヤだけど、彼は運転に集中していてくれるし、カーラジオが私の鳴き声もかき消した。  ここで私は大人になる。びっくりするくらい大人になってみせる。何でも吸収しようと思った。驚かせたかった。以前からの私を知る誰かを。この際、予定より長く太平洋の真ん中でボートを漕いでみようと思った。 足元に落ちたままの本を拾い上げた。真っ赤の表紙の本で題名がよく見えなかった。運転席に座った彼を見る、 「ノルウェイの森って本だよ。出たばっかりだけど、日本で今流行ってる」 本の後ろの方のページを見ると<1987年9月10日発行>と書いてあった。 月は追ってきてはいたけど、また雲に隠れて、おぼろげな光だけが月のある位置を教えていた。
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