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私はその日から、桜の絵を描き始めた。毎日河川敷に通い、筆を取る。また彼が来るだろうかと期待していたのだが、彼は来なかった。それでも私は絵を描き続けた。今まで気づかなかったのだが、桜はきれいだった。ほのかな桃色に染まる景色も、ヒラヒラと風に散る花びらも、見ていて心が洗われた。無機質なビルを描くより、よほど描きがいがあった。
そして、数日後、その絵は完成した。画用紙の一面に描かれた桜の木々、自分ながらになかなか良い作品ができた。
「きれいだ」
聞き覚えがある声がして、振り返ると、彼がいた。じっと私の絵を見つめている。
「ちょうど完成したばかりなんですよ。どうですか?」
「はい。きれいです。すごく良いです。ずっと見ていてもいいくらいです」
彼の言葉に、私の心が弾む。今まで、自分の絵を誰かに認められたいなんて思ったことはなかった。しかし、今こうやって、自分の絵を認めてくれたことは、素直に嬉しかった。
「この絵、あげますよ」
私は思わず、そう言ってしまった。
「えっ」
彼が何度も瞬きを繰り返す。
「欲しかったら、この絵、あげますよ」
「いや、そんな、悪いです。こんなに素敵な絵を」
「別に良いですよ。素人の絵ですし。気に入ってもらえたなら、もらってやってください」
彼はしばらく考える表情を浮かべてから、コクリとうなずいた。
「それなら、この絵をもらいます。ありがとうございます」
その柔らかな笑みに、胸の奥がくすぐられるような気持ちになった。
ここから、この男性と、何かあるのかもしれない。そんなことを思わなかったわけではない。しかし、その日以降、彼と再び会うことはなかった。
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