君とシトラス・サンセット

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 つぶやきを嘲笑うように寒風が吹き荒ぶ。冷え切った屋上の地べたに胡座をかいた状態で、酒のせいでふらつく頭をうなだれる。  背後から届いた鈍い金属音に、泣き濡れたままの顔を向けた。  屋上に一歩を踏み出した態勢で固まる男は、脇になにかを抱えている。細いフレームの眼鏡の奥で、狼狽真っ只中の瞳はそれでも奈柘に据えられたままだった。 「こ、こんばんは」  引きつった彼の第一声は、想像よりも低いものだった。場違い且つ間の悪い訪問者に気を取られた奈柘は、一瞬だけ忘れた寒さを思い出してぶぶっと身震いした。かれこれ三十分近く、酒を片手にひとりで屋上に居座っている。傍目には立派な不審者だ。 「……こんばんは。俺のことは気にせずにどうぞ」 「それは難しい注文だな」  ひどい鼻声でそれでも高圧的に放った声に、思いがけない返事が飛んできた。あぁ?……呻きに近い反応を漏らして威嚇したが、屋上に降り立った男は怯むことなく近づいてきた。 (なんだ? コイツ)  長い手足を持て余すようにのんびりと歩いてくる姿はキリンを彷彿とさせる。せっかくの長身なのに迫力は皆無で、ひょろりと頼りない。おまけのようにちょこんと乗った小さな顔は、困ったような、だが、引き返すつもりはないと言いたげな輝きを双眸に宿していた。 (あー……目は綺麗。くっきり二重だけど切れ長で俺好み)  失恋直後に初対面の男の容姿に見惚れる余裕は残っていたようだ。自分に呆れて冷めた笑いを漏らす。すぐ先の外灯が白々と照らす屋上の片隅で、男二人はしばらく見つめ合った。 「306号室の真方です。洗濯を干しに来たら……君のが聞こえて。かれこれ、五分くらい入口で逡巡してました」 「………………」  不審者の立場も忘れた奈柘は眉間に皺を寄せ、同じ階の自室からいちばん遠い部屋に住む男を観察する。ほら、と、言いたげに抱えていたものを示されると、たしかにそれはランドリーバッグであった。二月の深夜にアパートの屋上で洗濯を干そうとする男と、失恋でヤケ酒中の奈柘とでは、まだ前者の方がマシだ。
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