君とシトラス・サンセット

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「真方さん、手が止まってます。早くしないと陽が暮れますよ」  ああ、と、嘆きじみた叫びを上げ、真方は手にしたシャツをハンガーにくぐらせた。柑橘研究所の研究員ということは、顕微鏡やらシャーレやらメスやらを扱うはずだが、奈柘の知る限り、真方からは鋭敏さや繊細さは感じられない。どうにも不器用そうな、率直にいえば鈍くさい男だ。二十七歳という年齢も見た目通りなような、童顔なような、いまいちピンとこない風貌である。 (ま、俺はこの人と屋上でしか会わないし。素顔はちがうのかも。研究所では別人だったりして。すげえピリピリしてて、周りも声かけられないくらい……)  ぼっふ、と、情けない音を立てて真方のランドリーバッグが倒れた。靴下やらトランクスやらが溢れ出て、慌てて駆け寄る男はやはりここでの印象通りのようだ。 「手伝いますよ」  研究所ではどんな顔してんのかな――湧き出る好奇心には気づかず、奈柘は笑って真方の隣にしゃがみこんだ。  奈柘が暮らすアパートは、元は大学の学生寮であった。  三階建てなのに屋上がついていたり、洗濯場が共有だったり、外階段ではなく中廊下の造りだったりと、当時の面影が存分に残されている。  入居前は、学生寮時代のノリが残っていて、住人同士の交流が盛んなのではないかと恐れていたが、そんなことは一切なく、ごく普通のアパートであった。入居者も様々で、会社員らしき中年男性もいれば、派手な髪色のフリーターらしき若者もいる。一度も面識がない者もおり、同じ三階に住む真方とも二ヶ月前に初めて顔を合わせたばかりだ。
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