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「こいつ、本当になんも知らねえな……って、思ってるでしょ?」
「お、思ってないよ。ナツくんは、いつも洗濯をきちっと干してるし、物干し竿の配分もきちんとふまえて偏りなく干すところが几帳面ですごいと尊敬してる」
「……褒められた気がまったくしないです」
せっかくの長身も、じつは整った顔立ちも、なんの武器にもできずに、三つ年下の青二才にやりこめられている。真方は、まったくもって奈柘の好みではなかった。
(好みじゃなかったのになぁ)
柑橘には真方の体温がほんのりと宿されていた。名残惜しくて唇を押し当てたが、均一的なオレンジ色の表皮は徐々に冷たくなってきた。
「あ、ほら、空が赤くなってきた」
隣で手摺にもたれた真方は、はしゃいだ様子で西の空を指差した。最後の力を振り絞る太陽が、万物を呑みこむ勢いで光を放つ。のどかに広がっていた青空は次第に紫や紺色の複雑なグラデーションを描き、中央で散り菊のような燃える赤を際立たせる。
音もなく変化を遂げていく空の移ろいは、この世の無常を体現していると言わんばかりだ。
「真方さんの理屈でいうと、人間の心も綺麗ってことになっちゃいますね」
柑橘一つを胸に抱き、自然と想いが口からこぼれ落ちた。真方といると、自分も清廉になったような錯覚を覚える。そんなはず、ないのに。他愛ない想いに蓋をして、もう一度、空の向こうへと目をやった。
すぐには返事をせずに黙っていた真方も、奈柘と同じ動きを繰り返す。彼が正面を向いたはずみに、手摺をつかむ二人の手が軽く接触した。
「移ろわない心なんて、ないですからね」
自分で紡いだ言葉が、心の闇を引き寄せた。たまらずに顔をもたげると、まだ余力を振り絞る太陽が、奈柘の悲しみに呼応し煌めいた。
「そうだね。人の心は美しい。移ろい、さまよい、嘆き、突っ伏しては無限の襞を重ねていく。その様は綺麗なはずだよ。目には見えない分、余計にね」
前を向いたままの真方の声は、いつものように優しい余韻を耳に残した。
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