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「ベンチャー企業で働く女性って、もっとバリバリした感じなのかと思ってました」
その一言で、加奈子のなかの何かがぷつんと切れた。もう婚活なんてこりごりだ。彼女のなかでそんな言葉がうごめきだした。
「あの、一言良いでしょうか」
気が付くと、口が動いていた。
「あ、はい」
突然の出来事に、西中さんの表情は固まっている。
「まず、ベンチャー企業で働く女性、と一括りにするのは偏見といえる発言ではないでしょうか」
西中さんが口を挟もうとするのを遮り、加奈子は続ける。
「それに、私は例のごとく? バリバリした感じの女性だとよく言われます。入社して10年間、仕事一筋で頑張ってきて、恋愛する暇も作らなかった、そんな女性です。」
一息もいれず言い終わった。その瞬間、後悔が大波のように押し寄せてきた。せっかく、今日のためにエステへ行ったのに。昨晩は一睡もせず、マーケティングも完璧にしてきたのに。すべての努力が、この瞬間に泡のごとく弾けてしまった。西中さんの顔を見ると、加奈子に圧倒されたようで目をぱちくりとしている。新規営業で10年、顧客の顔色を伺いながら次々と契約を勝ち取ってきた彼女にはわかる。これは、敗北だ。いや、惨敗だ。隣の椅子においていたカバンを勢いよく取り上げて、加奈子は立ち上がった。
「それでは、失礼いたします」
財布から千円札を取り出して、テーブルに叩きつける。
「まって、まってください」
西中さんが加奈子を呼び止める。
「千円は多すぎますよ。今西さんはカフェラテ一杯しか飲んでないんですから」
ああ、一瞬でも期待した自分が馬鹿だった。目に涙を溜めた加奈子はけっこうです、という言葉を残しその場を足早に立ち去った。
これで、十戦十敗めだ。今まで仕事一筋で生きてきた加奈子には、恋愛のことを考える余裕なんてなかった。とりあえず目の前の仕事に、少しでも多くの労力をつぎ込むことに精一杯だった。恋愛のことは、仕事が落ち着いたら考えよう、そう考えているうちにいつのまにか十年もの時が経っていたのだ。そして先日帰省した折、ついに親から出た「結婚はしないのか」の一言に、加奈子もようやく焦りを感じ始めたのだった。
加奈子はそれまで、本気になればすぐにでも結婚できると思っていた。学生時代、彼氏に困ったことはなかった。恋愛と無縁になったのは、あくまで社会人になってからのこと。友人が婚活アプリで結婚相手と出会った、と聞いてから始めてみた婚活アプリ。実際、アプリを始めてみると、すぐにいろんな男性から誘いの連絡が入ってきた。しかし、会ってみるとことごとくダメなのだ。なぜかいつも、次の誘いがこないのだ。プライドをへし折って、いわゆる脈あり行動を尽くしてもだめだった。加奈子は毎回マーケティングを練って、それぞれの相手の好みに沿うよう努力してきた。それでも続く敗北に、加奈子の心もさすがに折れかけていた。
そんななかで迎えた西中さんとのデート。今回は、いつにもましてマーケティングプランを練ってきた。大手IT企業のエンジニア。眼鏡をかけて大人しく真面目そうでありながら、趣味はひとりキャンプ。将来は、きっと良い旦那さんになりそうだと、プロフィールをみて一目ぼれしたのだ。今までの失敗だって、西中さんとの出会いのためにあったのではないだろうか、と。柄にもなく乙女チックになってしまうほど、加奈子の気分は舞い上がっていたのに。加奈子は彼に好かれようと、物静かでありながら芯の強い女性をアピールしようとした。だから、いつもは男性に嫌煙されがちなベンチャー企業の新規営業というフレーズを、チャットの段階で使用したのだ。それでいて、会ったときには静かに話を聞いて微笑んでいる、そんなギャップを完璧に演じたはずだった。感触も決して悪くない、そう思っていた。
彼の一言ですべてが崩れた。偽りの自分を見透かしているかのような彼の言葉も、本当は笑って受け流せば良かったのかもしれない。だけど、そうしてしまえば彼女のこれまでが否定されてしまうような気がしたのだ。自分を否定してしまうような気がして、ついつい口が立ってしまったのだ。
いや、婚活において偽りの自分を演じて、自分を否定し続けていたのは自分自身か……。皮肉な現実にようやく気づき、加奈子は苦笑いしてしまった。
「あの、今田さん」
西中さんの声だ。振り返ると、彼がぜえぜえと息を荒げながら、こちらへ走って来ていた。そのまま、何かを握った手を差し出す。
「はぁ、やっとおいついた。お釣りです。受け取ってください」
この場に至って、まだそんなことをいうのか。加奈子は彼を鼻で笑ってしまった。
「真面目すぎるっていわれませんか?」
自分でも、ひどい女だと思った。完全なる逆ギレだった。いくらなんでも、初対面の相手をずたずたに傷つける言葉を放ってしまうなんて。私らしくない。とりあえず、彼の差し出した小銭を受け取り財布にしまう。もう、泣き出してしまいそうだった。
「ありがとうございます」
独り言のようにぼそっとつぶやいて、その場を一刻も早く離れようとした。
「参ったなぁ。あなたには何でもお見通しなんですね」
西中さんの言葉に思わず声が漏れた。
「えっ」
まさかの出来事に、加奈子の頭は追いついていなかった。
「いや、僕が真面目すぎるっていうのは本当のことなんです。僕は真面目すぎる不器用なやつなんですよ」
西中さんは恥ずかしそうに、頭をかいていた。
「……本当はね。お釣りのことは口実だったんですよ。気づいていたんでしょ? あなたを追いかける口実です」
「は、はあ」
思いがけない発言に、加奈子は呆然としていた。
「その、さっきの発言のこと謝ります。申し訳ありませんでした」
西中さんは、街のど真ん中で加奈子に深々と頭を下げた。
「ちょ、ちょっとやめてください」
加奈子は慌てて、西中さんの体を起こした。こんなところ、誰かに見られでもしたら、何という噂を立てられることやら。
「ごめんなさい、本当に申し訳ないことをしたと思ったものですから。今西さんや仕事のことを、悪く言ったつもりは決してなかったんです。むしろもっとあなたを知りたいと思って……。それが裏目に……」
西中さんは、俯いたまま首を横に振った。
「別に私、怒ってないですから。本当の自分を隠して、あなたに好かれようとしていた自分に嫌気がさしただけです」
「えっ」
西中さんが顔をあげる。
「こんな女性、気に入ってくれる男性なんているはずがないと、自分を否定していたのは自分自身なんです。それに私あなたに偏見を持つな、という趣旨の発言をしましたけど、謝ります。偏見をもっていたのは自分なんです」
西中さんがあまりにも素直に謝ってくるものだから、加奈子の口からも本音がこぼれ落ちた。こんなにも素直に自分の非を認めるのは、いつぶりのことかわからない。加奈子の体から、ぽろぽろと錆びついた鎧がはがれていく。
「偏見を、もっていたんですか?」
西中さんは恐る恐る聞いてきた。
「あなたが、物静かでありながら芯の強い女性が好みなんじゃないかって。勝手に想像を膨らませて、そこにキャラを寄せた結果がこれです」
加奈子は自分のことが情けなく思えてきた。なんてやつだ。いくら優しい西中さんも、今の発言にはドン引きしたことだろう。もうあきれて反応も返ってこなくなってしまった。顔を上げると、西中さんは声を殺して必死に笑いをこらえている様子だった。
「あの、西中さん? 今の私の発言、聞いてましたか?」
思わず確かめてしまった。彼は発言を聞いていなかった、もしくは頭がおかしいのではないか、と。
「いやあ、面白い方だ、あなたは」
西中さんは感心したようにそう言った。
「僕は、バリバリ仕事をしてきて恋愛なんてろくにしてこなかった、そんな女性に会いに来たんですよ。あなたが想像を膨らませたように、僕だってそんなあなたとお会いすることに期待を膨らませて、今日に臨んでいたんです」
加奈子は呆気にとられてしまった。
「私のことを、馬鹿にしているんですか?」
「滅相もない。すみません、僕は本当に口下手なんです。なんと言ったら理解してもらえるのでしょうか……」
西中さんは、困ったように眉をしかめた。
「バリバリ仕事をして、恋愛をろくにしてこなかったという女性のどこに魅力を感じたのかを聞いているんです」
加奈子は、ついに足を止めて腰に両手をあてた。臨戦態勢だ。この状態の彼女を打ち負かせたことのある相手は、誰一人としていない。西中さんの口からどんな言い訳が出てくるものか、加奈子は考えを巡らせた。
「いやぁ僕はね、それほどまでに仕事に情熱をかけて取り組んでこられた方になら、僕のことも理解してもらえるのではないかと思ったんです」
「と、いいますと?」
間髪入れずに質問をする。
「僕も仕事に情熱をかけるあまり、ろくに恋愛をしてこなかった人間ですから」
「それにしても……」
加奈子の声を西中さんが遮った。
「それに、僕は物静かな方よりも、今田さんのようにおしゃべりな方のほうがタイプなんです。努力家で、よく喋る女性がタイプなんですよ」
加奈子はどんな顔をしていただろう。あまりの驚きに、口は開けていたのではないかと思う。西中さんは、物静かな女性がタイプではないというのか。
「では、私のマーケティングは間違っていたのでしょうか」
なんて馬鹿な質問を、と気づくころにはすべてを口にしていた。
「マーケティング、ですか。まあそうですね。間違っているかどうか、という質問に対しては、仕事と恋愛は別物なのでは? と恋愛下手な僕が言っておきます」
西中さんはまた笑い出した。そういえば、西中さんもこんなに喋る男性だとは思いもしていなかった。もともとの分析では、真面目でおとなしく家庭に収まってくれそうだと思っていたのに。いや、西中さんはよく喋るが真面目な人なのだろう。家庭も大切にしてくれそうな素敵な男性だ。西中さんに対するマーケティングもなにもかも、まるで見当違いだったのだろう。
「恋愛と離れすぎて、恋愛にまで仕事のような向き合い方をしてしまっていたようですね」
加奈子は肩を落とした。
「それほどまでに、仕事に打ち込むことのできる方なんてなかなかいませんよ」
西中さんの顔をみる。いつの間にか真剣な顔をして、加奈子のことを見つめていた。彼なら本当の加奈子のことを受け入れてくれるのではないか、そんな希望が生まれ始めていた。
「西中さん……」
もう一度、私にチャンスをいただけませんか? その一言がなかなか口に出せなかった。
「あなたは十分に素敵な女性です。あなたなら、きっとそのままでもふさわしい男性を見つけられるのではないかと思います」
ああ、西中さんが去ってしまう。加奈子はまだ、言葉を発せないでいた。
「ご迷惑をおかけしました」
そんな加奈子を見て、西中さんは一言残すと反対方向へ歩き出した。今までと一緒ではないか。このままでは次の誘いなんて来るはずがない。だからといって、これまでのように諦めても良いのだろうか。西中さんのような人と、再び巡り会えるのだろうか。加奈子はカバンを握り締めた。
「あの、西中さん」
西中さんが歩みを止めた。
「あの、私にもう一度チャンスをいただけないでしょうか」
「チャンスですか?」
そうだ。ついつい、恥ずかしいからと言葉をオブラートに包んでいた。
「私と、またデートにいっていただけませんか?」
加奈子は、唇をかみしめていた。足はがくがくと震えている。自分から勇気を出して誘ったことなど、生まれて初めてのことだった。
「デート、ですか……」
西中さんが下を向いた。ああ、終わってしまった。加奈子が初めて誘ったデートは、呆気なくかなわなかったのだ。
「そうですよね、こんな女とデートになんて行きたくないですよね」
加奈子は西中さんに軽く一礼した。でも、不思議と後悔のような感情はなかった。全力で向き合った結果だ。悔しいけど仕方ない……。
「もしよろしければ、僕と結婚を前提にしたお付き合いをしてくださりませんか?」
聞き間違いかと思った。西中さんは至って真剣な顔をしている。加奈子の頭は真っ白になった。加奈子と結婚を前提にしたお付き合いをしたい、と?
「なぜ、ですか?」
はい、とすぐに答えればいいものを。加奈子はまた、いらないことをしてしまったと思った。
「あなたのように素直な人には、初めて出会いました。いや、学生のころならいたのかもしれませんがね。この歳になって、これほど素直で一生懸命な方に出会えるとは思いませんでした。あなたのような方と、家庭を築いていきたい。僕はそう思います」
素直にとった行動は、奇跡を生むこともあるのかと加奈子は初めて気づいた。仕事と恋愛は別物、か。加奈子は思わず笑ってしまった。
「こんなきつい女に告白してくださるなんて、あなたも物好きなんですね」
西中さんはきょとんとした顔をしている。
「きつい、のですか? 僕はそういう物言いをされることに慣れているものですから、きついだなんて思いませんでしたよ」
西中さんは、相変わらず真面目な顔で加奈子をみている。
「それで、返事は?」
加奈子の胸がドクドクと高鳴る。もう一度勇気を出すんだ、私。自分にそう言い聞かせて勇気をふり絞る。
「こんな私でよければ」
西中さんはまだ物足りない顔をしていた。加奈子は吹き出してしまった。
「私こそ、あなたみたいな人と出会えるとは思っていませんでした。この歳になって、街中で自然に頭を下げられる方なんて滅多にいませんよ。いや、会ったことがありませんでした」
加奈子は笑いながらも、若干顔をひきつらせていた。こんな風に、自分の想いを素直に伝えるなんていつぶりだろうか。顔がカーっと熱くなっているのを感じた。西中さんの方も、かなり恥ずかしそうにしていた。
「年甲斐もないですね」
加奈子は顔を赤らめたままそう言った。
「そうでしょうか。僕も久方ぶりですっかり忘れていましたが、恋愛とは、こういうものなのではないでしょうか」
西中さんの言う通りだ。加奈子は、西中さんの手をとった。
「えっ」
加奈子以上に顔を赤らめた西中さんが、驚いた顔をして加奈子をみていた。
「どうせなら、思い切り恋愛しましょうよ」
自分でも驚いていた。街中で、これほど大胆な行動をとるなんて。誰がみているかもわからないというのに。
「ははっ。そうですね。年甲斐もない恋愛をしましょう。恋愛をして、結婚しましょう」
西中さんは繋いだ手を大きく振り始めた。
「ちょっと、それはやりすぎですよ」
「ご、ごめんなさい。つい」
加奈子の顔に笑みがこぼれる。
「大人なのに、子どもなんですね」
「やっぱり、あなたは何でもお見通しだ」
西中さんは、少年のような笑顔をみせた。
「加奈子、でいいですよ」
西中さんは、目をパチクリとさせた。
「加奈子さん、から始めさせてください」
加奈子はおかしくなってしまった。
「じゃあ、私は義之さん、で」
「いいですね」
どちらが言い出すわけでもなく、ふたりは手を繋いだまま港まで足を運んでいた。
「写真、撮りませんか?」
西中さんが突然言い出した。
「なんで写真なんですか?」
恥ずかしい、という言葉は飲み込んだ。
「記念ですよ、記念。いつかこの写真を見て、この特別な日を思い出すように」
西中さんの言葉は、日常に溶け込んでいるのになぜかロマンチックだった。スマホを取り出して、西中さんが写真を撮ってくれる。慣れていないのか、少しぶれてしまったがそれもご愛嬌だ。
「そういえば、まだアプリ以外の連絡先教えてもらってません」
西中さんが不満そうな顔で、加奈子を見てきた。
「聞かれてませんもん……、嘘ですよ。交換しましょう」
いつもと違う自分に、新しい未来が開けることを予感する加奈子だった。
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