犠牲のクエル

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 ランドは走り続けている。  あの後、クエルの話を聞く限り、今日の夜、村の湖でランドのお母さんが生け贄として死んでしまうということだった。  止めなきゃ。止めなきゃお母さんが死ぬ!!  そう思い立ち、ランドは走り出した。  湖は村の奥深くの森にある。  そこに辿り着くには大人で二時間、子どもならもっとかかる。  もう夕刻であった。  森に入り、枝や鋭い草で体が傷ついても、途中で泥に滑ったり木の根につまづいて転んだりしても走り続けた。もう身体は血だらけ傷だらけにまみれていたが構わない。それでも行かなければならない、行って止めなければ母親が死んでしまう。だから走り続けている。  途中で何回も獣に襲われた。鬼のような形相をした猿、牙を剥く口だけの植物、血を吸うコウモリ、糸切り歯が大きな虎、ありとあらゆる獣に襲われたがそれでも走り続けた。  それらは何も怖く無かった。怖いのはたったひとつ。  大切な母親が死ぬこと。   もう辺りはめっきり暗くなり、周りの景色が全く見えない。全体が真っ黒な闇の中に包まれたような感覚を覚える。もう夜になっていることは明白だ。だから、母親が生け贄として殺されてしまう時刻が近付いている。  もうなりふり構っていられない。自身の顔を守る腕も解き、腕を大きく振り、全速力で走り出した。すると、森の奥にボウ、と火の塊が見えてきた。  あそこが出口かと思い、ランドはそこを目指した。  足が千切れそうな痛みを感じたがそれでも、母親の顔を思い出すと、そんな痛みも痒さにすら満たなかった。  やがて、火が近くに見えてきたかと思うと真っ黒な暗闇が視界から消えた。  身体の痛みも消えた。そこで森を抜けたのだとランドは分かった。  すると、何か人影のような物が磔にされているのが目に飛び込んできた。  あれは母親だとランドは思った。 「お母さん!!!」  ランドは叫んだ。ふと、人影がこっちを向いたような気がした。  その時、松明なのか明かりが人影を照らした。そこに映ったのは紛れもなく自分の母親だった。母親が竹でできた吊り下げられた何かに磔にされていた。  いよいよ、母親に手が届くと思った瞬間、背中に大岩がのしかかったかのような重みと衝撃が直撃した。そのままランドは地面にうつ伏せにさせられ、背中に手を組まされてしまう。  もの凄い激痛が体中を回る。しかし、痛みなど今更だった。 「お母さん!! お母さん!!」  なんとかその重みから抜けだそうとしたが、今度は背中だけでは無く頭にまでその感触が襲いかかってきた、しかしその時の頭の感覚で分かった。今、自分は無数の手に襲われているのだと、そしてその手は……。 「こんな所に来たのか」  村長の声が聞こえた。ランドは今、自分を覆っている手が村長の周りにいる男たちの手だと理解した。 「はなせ……母さんを返せ!!!」  その叫びは空しく周りには届いていなかった。  泥と砂が顔中にかかり視界が見えなく鳴る。村長はもう自分に背を向けていた。  村長は母親の方を振り返り手を挙げた。  その瞬間、磔にされていた母親の身体が湖の中に沈んだ。 「お母さん!!」  ランドはもがく、体中の骨が折れても構わないと、もがき続ける。体中の血管が切れそうになっても、目が血が出るほど充血してもそれは止まらない。  沈んだ瞬間、母親の顔が見えた。かすかだったがそれは見えた。  母親は一筋の涙を流していた。  しかし、次に磔にしているものが湖から上がった時、そこには自分母親はいなかった。  ただ、真っ赤に染まった竹があるだけだった。その赤は血であるとランドは察した。  風船が割れたかのように全身の力が抜けた。  助けられなかった。  大切な母親を目の前で殺されてしまった。いや、助けられなかった。その言葉が頭の中で毒のように回っていく。涙は出なかった。力も、声も、何もかもを失ったような。 「連れて行け」  やがて、自分の身体が背負われる。どんどん、母がいた所から離れていく。 「ま……て……」  叫びたかったが声が出なかった。やがて視界は暗黒に染まり、そのまま閉ざされていった。  
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