第一章 -犬と狼の間-

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「――それはアウトですよ、さん」 「ゲフッ!?」  私の顔の皮を喰い千切(ちぎ)る前に、「怪異」は地面に叩き付けられた。突如飛来してきた何者かに額を蹴り砕かれて、あえなく撃墜したのだ。  噴火のごとき衝撃波に足が(もつ)れる。数本後退(あとずさ)って体勢を立て直すも、間髪を入れず新たな災難に見舞われる。砂埃(すなぼこり)だ。  派手に巻き上がる乾いた煙幕。慌てて口元を両手で塞ぎ、咳き込みそうになるのをグッと耐える。 「にしてもまあ、『瞬間移動』とは意外な能力ですね。いや、あんまり意外でもないのかな。貴女は元来、。いわば尾行のプロフェッショナルだ。ターゲットの死角に潜むくらい、お茶の子さいさいってわけですね」  黄色く立ち込める砂嵐の中心から、とうに聞きなれた声が届く。ただ、リズミカルな言振りは変わりないのに、音調が若干低い。ほんの一雫(ひとしずく)の怒気が、周囲の空気を(よど)ませている。 「いやはや、実に上手い戦法ですよ。俺の背後にいたお嬢さんを直接狙いに来るとは。途中で静かになったのは、能力発動のタイミングを窺っていたからかな。邪魔者の目を(あざむ)くついでに、最短ルートで標的に襲いかかる。狩人としてはなかなかに優秀ですね。――、ですが」  浮遊する(ちり)が徐々に減り、事態が明らかになっていく。真っ先に私の目を奪ったのは、だらしなく舌を垂らして倒れ伏す獣の姿だ。 「送り狼」と呼ばれたそれは、脳を揺らされて余程(よほど)堪えたのか、白目を剥いてプルプル震えている。  ()いで興味をそそられたのが、「怪異」の頭上で片足立ちをする謎の人影。パーカーとジーンズで決めた装いが、いかにもの若者風である。黒を基調とした組み合わせは一見地味だが、夜闇に溶け込むには打って付けだ。 「いいですか、送り狼さん。貴女は狩人である前に怪異だ。怪異は神話や伝承から生じ、畏怖や信仰を(かて)に生きるもの。要するに、『語り手』がいて初めて成り立つ存在なのです。  ところが、この『語り手』というのが厄介だ。聞き取りミスを犯す人間なんてザラだし、意図的に話を改変する(やから)までいる。好き放題に()ねくり回された物語は、もはや原型を留めない。  一つ例を挙げましょう。『平家物語』にも登場する土蜘蛛(つちぐも)は、虎の頭を持つ巨大な蜘蛛の妖怪として知られています。しかし、元々『土蜘蛛』は朝廷に逆らう豪族を揶揄(やゆ)する語句でした。本来は血の通った人間なのに、悪意ある印象を植え付けられた結果、本物の怪異へと変貌してしまったのです」  フードを目深に被ったまま、滑らかに口を動かす青年。その様異(さまこと)なる(たたず)まいを何と表現するべきか、私は大いに迷った。 「人間」にしては逸脱的過ぎる。妖怪のテレポートに追いつける脚力も、虚を()かれた直後に反撃に転じられる機転も、人間業とは思えない。  かといって、「怪異」と称するにも親和的過ぎる。相手を一方的に打ち負かせる強さがあるのに、一にも二にも対話を重視する在り方は、送り狼とは対照的だ。  悩み抜いた末に、私は一つの言葉を見つけ出した。途方もなく悍ましくて、それでいて限りなく魅力的な一言。  彼は「人間と怪異の間」だった。
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