第一章 -犬と狼の間-

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 そっと差し出された導きの手。誘いに応じるべきだと分かっているのに、足が動かない。靴裏から太い根が伸びて、地面に据え付けられてしまったみたいだ。  青年を信用していないわけではない。横道を平気で突き進める彼なら、あるいは邪神の怨念とも渡り合えるかもしれない。  それでも万が一、呪いの脅威が「救世主」の限界を上回ってしまったら? がどれだけの被害をもたらすのか、私は身をもって体験している。  弱い自分を許せない。醜い自分を認められない。「語らずの巫女」などと(はや)し立てられても、何も言い返せなかった自分は――まだ愛してあげられる。分厚い壁に隔てられるのは息が詰まるが、誰かの息の根を止めるよりはマシだ。 「……」  青年は静かに待っている。気乗り薄な私を責めたりせず、辛抱強く立ち止まっている。  無意味な駆け引きはいつまで続くのか。いっそその手を引き下げてくれれば楽なのに。そうすれば「聞く神の巫女」の願いを裏切ることなく、独りきりで堕ちていけるのに。  ぶちまけようのない不安に駆られて、反射的に口を強く引き結ぶ。間違っても泣き言など漏らさないように、呼吸を止め、歯を食いしばり、腹にグッと力を込める。  ぐううううううううう。 「……ほへ?」  ……最後は余計だった。締め付けられた胃の腑から、情けない音が飛び出る。  思いがけない展開にギョッとする。邪神の支配が及ぶのは、のみ。となれば今回はセーフのはずだが、何かの手違いで青年に火の粉が降りかかったら―― 「……プッ。アッハッハ! ヒーッヒッヒ! いやー、大変元気がよろしいねえ!」  馬鹿みたいに狼狽する私を、上っ調子な笑い声が掬い上げる。軽薄な響きに触発されて、湯気が立ちそうなくらい顔が熱くなる。  これが正常な反応だ。公の場で腹が鳴ったなら、恥ずかしがるのが普通なのだ。自分の殻の中で(こじ)れていると、人間らしさを忘れてしまう。
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