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「ふふっ。それじゃあ行こうか、お嬢さん」
朗らかな導きに吸い寄せられて、じっとりとした草道を進む。走るには適さないロングブーツも、シダの葉を掻き分けるには丁度良い。足下を細々と流れる清水を、慎重にピョイと飛び越える。斑にひかめく熱帯林を征くのは、ちょっとした冒険気分だ。
「むむっ。ご覧よ、お嬢さん。向こうに赤くてチクチクした花があるだろう? あれがカフェで話したオヒアレフアだ! たとえ太平洋を隔てても、恋人達は仲睦まじく咲くんだねえ。
で、そっちの白い花はデンドロカカリヤ。『大家』さんのお気に入りでね、和名を『ワダンノキ』という。もしも『デンドロカカリヤ』が『デンドロカカリヤ』でなかったなら、『海菜荘』は何て名前になっていたのかな? おおっと、次は――」
半袖姿のツアーガイドが、遊園地のアトラクションよろしく、異界の風景に名前を付けていく。彼と同じ視界を楽しみ、同じ心界を味わうごとに、ハレとケの境界がぼんやりしていく。退屈しない旅路の果てに、現れ出たのは螺旋階段。波打つ手摺にもたれ掛かり、半身に体重を集中させ、まさに一歩踏み出そうとした時だ。
「おい、小娘! 待てと言っているのが聞こえんのか!? 返事もなしに逃げるつもりかっ!?」
追ってくる咆哮は堪らなく悲痛で、また私にはどうしようもなく非痛だった。仮にこの命が、自分一人で完結する程度のものだったなら、もしかすると振り返っていたかもしれない。何しろ死ぬのは怖くないから。
ところが苦々しいことに、我が身は計り切れない犠牲の上に成り立っている。「雄弁記者」が、「一つ目の異人」が――「聞く神の巫女」が、私に命を上乗せしてくれた。過剰に注がれたやる気と勇気で、天秤皿は溢れんばかり。どうして無駄遣いできようか。わざわざ敵の言いなりになり、自ずから命を掃き捨てるなど――約束を破らせるなど、誤った気遣いも甚だしい。
「さあさあ、お先にどうぞ! 躓かないように気を付けてね」
柚麒さんにそっと背中を押され、浮かせた踵を最初の段に置く。黒い踏み板はしなやかで、力を込めるとキイキイ軋む。片手に刺さる鍵の感触を確かめながら、私はトントン拍子で駆け上がって――
「ええいっ、無視を貫くとは可愛げのないっ! まったく――『語らずの巫女』とは良く言ったものだな!」
……え? 今、何と?
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